作:牧師
紅葉した山に誘われて、一人の女性が山道を歩いていた。
「ん〜っ、綺麗な紅葉っ。こんな景色を書き留める機会を見逃す手は無いわね」
彼女の言動から察するに手にしたカバンには、おそらくキャンバスと絵の具、
それに絵筆などが収められているのだろう。
彼女は栗色の長い髪を木の枝に絡まら無い様にする為か、細いリボンで束ねている。
「ふんふん〜♪、天気も良いし、最高の写生日和よね〜」
彼女は白く細い足に似合わぬ軽やかな足取りで、起伏の激しい山道を登っていく。
「もう少し先まで・・・、きゃあっ」
ズシャッと音を立て、彼女は地面に少し顔を覗かせた何かに躓き、倒れこんだ。
「イタタタタッ、んも〜何に躓いたのよ?えっと、あれは・・・木の根かな?」
彼女が躓いたのは、一見、木の根のように見えたかもしれ無い。
その木の根の様な物の先は、生い茂る草むらの中に消えていたのだから。
「山の中だから仕方ないか。私の不注意だし・・・、せっかく良い気分だったのに」
彼女はキュロットに付いた砂を払い、再び山の中腹を目指して歩を進め始めた。
カサカサと枯葉を踏みしめる音と、パキパキと散乱している小枝を踏み折る音が
風に乗って辺りに響いていた。
「真紅の落ち葉や黄色い落ち葉が、まるで絨毯みたいに山道を彩ってる綺麗・・・」
色とりどりの落ち葉に目を奪われ、彼女は躓いた場所から数十歩進んだ所で
細い木の枝の様な物をうっかり踏んでしまった。
彼女が踏んだ物の正体は、体長八センチほどの小さく細いヘビだった。
彼女に踏まれて驚いたヘビは、小さな口に生える二本の牙を、細く白い足に突立てた。
「イタッ!!今度は何?あ、ヘ・・・ヘビに噛まれてる!!」
彼女は足に噛み付いたヘビを追い払い、バッグからハンカチを取り出し、傷口を縛る。
「今のヘビ、もしかして毒蛇かな?でもマムシには見えなかったけど・・・」
彼女の知る知識の中では、噛んだヘビは毒蛇では無いはずだった。
だが万が一を考え、彼女は来た道を引き返し始める。
「はぁ・・・、はぁ。なんだか体が重くなって来た」
山道を下り始めた彼女の体に異変が起きていた。
僅か数十歩ほど歩いただけで、体がまるで鉛のように重く感じ、息切れも激しかった。
「毒蛇じゃない筈なのにどうして・・・こんなに体がだるくなって・・・、きゃあっ」
彼女は先ほど躓いた木の根の様な物に再び躓き、地面に倒れこんだ。
「また木の根?何もこんな時まで・・・。な・・・何これ?」
彼女が先程まで木の根だと思っていた物は、石で出来た人の腕だった。
草むらの中に開いた石の掌の半分程が覗いていた。
「どうしてこんな所に石像の腕が・・・?熱っ、何?今度は急に寒気が・・・」
その時、彼女の体の彼方此方から焼け付くような痛みが襲い掛かる。
「ふぅ・・・はぁ、はぁ・・・。体中に灰色の斑点が・・・」
焼け付く痛みの後、急激に凍り付く様な寒気が過ぎると、一センチ程の灰色の斑点が
次々に浮かび上がって来る。
「この斑点、どんどん数が増えて・・・、何?この感触、まるで石みたい・・・」
彼女は左手の甲に出来た斑点を、右手の人差し指で恐る恐る触れてみた。
指先に冷たく固い石の様な感触が伝わってくる。
「幻覚?そうよ、私はヘビの毒で幻覚を見てるのよ」
彼女は自らの体に起きた、石化という現象を認めたがらなかった。
否、起きている事は理解していたのだろうが、それを認めたくは無かった。
誰もそうだろう、非現実的な現象に襲われた時、それを受け入れる事は難しい。
「何とかあそこまで・・・、少し休めばまた動ける様になる筈よね・・・」
彼女は半分以上灰色の斑点に埋め尽くされた先程まで細く白かった足を引き摺り、
大きな椛の木の根元までたどり着き、木に背中を預けて休む事が出来た。
後には大きなヘビが這った様な、太い二本の線が残されていた。
「どうしてこんな事に?何がいけなかったの?」
灰色の斑点が繋がると、パキッと何かが硬化する音が聞こえる。
彼女の体中の彼方此方でパキッ、パキッと耳障りな音が響いていた。
キュロットから覗く、足の膝から下は完全に灰色の硬い石に変化し足の感覚は無く、
代わりに何か重い物が圧し掛かってるような感覚が伝わってくる。
「ひっく、ぐすっ、いやだよ・・・、誰か助けてよ・・・」
足、背中、両手の感覚は殆ど無く、時折襲い来る、焼ける様な痛みと寒気だけが、
まだ生身の部分が在る証だった。
「お・・・おなかが熱い、けほっ、けほっ。なん・・だか、声が・・・」
彼女の石化は体内でも進行しており、腸の一部が石になった事で、激しい腹痛を、
脳の一部が石に変わり始めた事により、焼けた針を刺されたようなを頭痛を、
肺が石化を始めた事により呼吸困難を引き起こしていた。
「ぜぇ、ぜぇ、イタッ・・・、もう感覚が・・・、頬が温かい、私泣いてるんだ」
石になりかけた頬を伝い、一筋の涙が流れる、わざかに残った生身の部分に
ほんのりと温かい涙の感触がもたらされた。
視界にも灰色の靄がかかり始め、瞳から光が奪われていく。
『嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、
イヤダ、イヤ・・・ダ・・・、石に・・・なん・・か、なり・・・たく無・・』
やがてパキッ、パキッと鳴る音も途絶え、彼女は完全に石に変わり果てた。
カサカサと音を立て、舞い落ちる赤や黄色の木の葉が、彼女を埋葬していく。
私は彼女から数十歩程離れた所で、彼女が石に代わる様を灰色の瞳で見つめていた。
彼女も私と同じくこの先、何十年、何百年と、石の体で助けを待つ身になった。
助けは来るのだろうか?私達は元の温かい体を取り戻せるのだろうか?
この山に点在する無数の石の体を持つ人々が同じ答えを探している。
この風景を見る事が永遠ならざる事を願って、私は今日も夕日が沈むのを眺めていた。
彼女も同じ風景を、石に代わった瞳で見つめているに違いない・・・。