夢幻の静寂

作:牧師


 雨の降るある冬の日、篠中恵美(ささなかえみ)は放課後を図書室で過ごしていた。
 図書室は大きなストーブが焚いてあるにも拘らず、読書に耽る他の生徒も寒さに少し震えていた。
「うぅ…寒いよ〜っ、もう少し暖房に予算を回してくれれば良いのに…」
 恵美はブツブツと不満を述べながら、本棚に並ぶ様々な本を眺めていた。
 歴史物、サスペンス、SF、推理物と様々なジャンルの本の前を通り過ぎ、ある一冊の本に視線を止めた。
「何この本?こんな本もあったんだ…」
 恵美は夢幻の静寂と書かれた本を手に取り、近くのテーブルに腰をかけページを捲り始めた。

「この書物は姿形を変え汝の前に現れる、手に取りし者は絡み付く夢と永遠へと誘う幻に魅入られし者なり。
やがて白い静寂が汝の全てを包み込む、魅入られし者が静寂から逃れる術無し…」
 本に書かれた最初の一文がそれであった、推理物とも怪奇物とも取る事が出来ない書き出しだった。
本には目次が無く、この一文の後に数ページ程白紙が続き、その後数ページ毎に人の名前が綴られていた。
「最初は藤原静?なんだか古風な話だな…」
 物語の舞台は平安時代辺りだろうか?ある貴族の女性が巻物を手にした日から、毎晩、白い靄の様な物に襲われ、
少しずつ身体を大理石に変えられていく悪夢に苦しむ話。
 毎日夢の中で女性の身体に起る異変を、細部に至るまで克明に書き記されていた。

「なんだか女性の話ばかり…、それに全員最後は石人形に変えられてる。大理石、翡翠、蛍石、石英、琥珀…」
 恵美は幾つかの話を読むうちに最後の部分、つまり各話の完結部分がやけに引っかかった。
それは石に変えられている事が夢の中のなのか、現実の出来事なのかがはっきりとしなくなって行く点だった。
 更にこの本には発行者、発行所等が一切書かれておらず、その上最後に必ず在る学校の図書カードすらなかった。
「貼ってあった形跡も無い…、この本誰かが持ち込んだのかな?」
 その時、恵美が背筋に冷たい物を感じ後ろを振り返えると、そこに一瞬、綺麗な女性が微笑んでいるのが見えた。
念の為にもう一度振り返ると女性の姿は何処にも無く、手元にあった筈の本も跡形も無く消え去っていた。
「何…今の?あの本何処に消えたの?やだっ…気味が悪いよ」
 恵美は大きな音を立てて椅子から飛び退き、周りで読書に耽る他の生徒から一斉に白い目で睨まれたが、
そんな事には一切構わず、一目散に薄ら寒い図書室から飛び出した。


 その日の夜、恵美は放課後の出来事を振り払う様に目を瞑って布団を頭まで被り、やがて夢の中へ落ちていった。
 夢の中でも恵美は自分の部屋の中にいた、一つ違うのはベットの傍らに女性が微笑みながら立っていた事だった。
女性が手の平を翳すと、そこから白い靄が現れ、そして静かに恵美の左手を包み込んだ。
 白い靄に包まれた恵美の左手は、細く柔らかい二の腕と上腕の一部がゆっくりと白い大理石に変わって行き、
その光景を見届けると女性は微笑みながら消えていった。

 翌朝目覚めた恵美は、制服に着替える為に右手でパジャマのボタンを外し左手を動かそうとして違和感を覚えた。
左手が重く思う様に動かない、その上まるで重度の火傷を負った皮膚が引っ張られる様な感覚にとらわれた。
「まさか…ね」
 恵美は恐る恐る右手を伸ばし左手の二の腕に触れてみた、すると触れた指先に硬くて冷たい石の感触が伝わった。
「ひっ!!いや…そんなあれは夢で…イタッ…」
 白い大理石に変わった左手の上腕を恵美が指で強く押すと、パキッと小さな音と共に大理石の皮膚にヒビが入り、
そこから真っ赤な血がじわじわと染み出し、白い大理石の左手に一本の赤い筋を残した。
 この時点で左手の大理石化は、まだ皮膚だけに留まっていた、故に恵美が取り急ぎ医者に見せて原因を話し、
大理石に変わった左手の皮膚を全て取り除く事が出来れば、恵美の大理石化は収まっていたかもしれない。
 しかし仮に取り除けたとしても傷跡は大きく、まだ若い恵美には残酷な運命が待っていた。

 恵美は大理石の傷に絆創膏を張ると、そのまま布団に包まり学校を休む事にした。
心配した母親が様子を伺いに来ても部屋に鍵をかけた恵美は返事をする事無く、布団の中で只ひたすら震えていた。
 まだ夢の中にいる、目が覚めれば昨日からの事は全て夢で、いつもと同じ毎日が始まると心の中で念じながら…。

 その日の夜、夢の中では再び、恵美の寝ているベットの傍らに女性が微笑みながら立っていた。
昨日と違い恵美の意識は夢の中ではっきりとしていた、女性の手から白い靄が放たれると恵美は逃げ様としたが、
まるで金縛りにあったかの様に指一本動かす事が出来無い。
 白い靄が恵美の右足を包み込む、その後白い靄は更に両手を包み込み、左手を指の先まで痺れる様な感覚が襲う。
 この日も夢の中に現れた女性は、微笑みながら消えていった。

 翌日午前八時、心配した母親が合鍵を使い、小さな土鍋に入ったお粥を手にして恵美の部屋に入ってきた。
母親がベットに近づいても恵美は虚ろな瞳で天井をみつめ、布団から出る気配すらなかった。
「恵美ちゃんどうしたの?そんなに具合が悪いの、せめてご飯だけでも食べないと身体に悪いわよ」
 母親が声をかけると恵美は虚ろな瞳に涙を浮かべた。
 少しの間涙を拭う事も無く泣きじゃくった恵美は、途切れ途切れの声で母親に訴えかけた。
「手が…全然動かないの、お母さん…わたし怖いよ…」
 母親は恵美の言葉を聞き、ゆっくりと布団を剥がすとパジャマの袖から完全に大理石と化した手首が覗いていた。
「ど…どうしたのこれ?そんな信じられない…、恵美の手が大理石に…、それに氷の様に冷たい…」
 パジャマのボタンを外し、母親が恵美の身体を確認すると、左手は肩の関節から完全に白い大理石と化していた。
右手と右足は所々大理石と化していたが、前日の左手の様に大理石化はまだ皮膚だけに留まっていた。

「救急車!!急いで病院で診て貰わないと!!」
 母親の通報は消防局には相手にされなかった。
起きている事が現実味を帯びていないので、良くある悪戯電話と勘違いされてまるで信用されなかった。
最後は懇願する母親に圧倒された消防隊員が救急車を恵美の家に向わせ、現状を実際に目の当たりにし絶句した。
 大理石と化した左手は非常に重く、生身の身体に負担をかけ無い様に搬出はする事は困難を極めた。
その上、完全に大理石と化していない右手と右足部分に至っては、隊員が持ち上げようとしただけでヒビが入り、
発生した無数のヒビから出血が始まり、救急隊員は恵美の身体にヒビが入る度に止血等の応急処置を行なった。
 救急隊員が苦心の末に恵美を病院に運び終えたのは、母親が通報してから実に数時間後の事だった。

 搬送された病院でも恵美の扱いは非常に困難な物となった。
検査の結果、左手は内部の骨に至るまで完全に大理石と化している事が判明した。
右手と右足はまだ表皮が大理石に変わっているだけで、手術により摘出は可能であったが範囲は広く、
所々皮下組織まで大理石化が進行しており、摘出後に残る術痕の問題等の為、この日に手術は行なわれなかった。

「そうなの…、そんな事があったのね…」
 恵美の担当医になったのは、まだ新人医師の高月祥子(たかつきしょうこ)だった。
年齢が近い事に加え、体が大理石に変わるという前例の無く原因不明の病の為、新人の祥子が抜擢された。
 半信半疑ながらも恵美から本の事を聞き、抱えている不安を取り除いて気を紛らわせようと祥子は頑張っていた。
 祥子が苦労したのは精神面の治療の他にもあった、腕が大理石化している為に注射や点滴等の治療が施せない事。
更に両手が大理石と化して動かせない為に、食事や身の回りの世話も思うようには行かなかった。

 その日の夜、病院のベットで寝ているにも拘らず、恵美の夢の中で女性が微笑みながら立っていた。
数日前に現れた時、女性の姿は薄ぼんやりとしていたが、今ではその姿をはっきりと見る事が出来た。
『お願い…、助けて…』
 懇願する恵美に構わず、女性は三度手から靄を生み出し、ゆっくりと恵美の身体を包み込む。
先日皮膚まで大理石に変えた右手と右足、続いてまだ柔らかい生身の左足を白い靄が這う様に包み込み、
その後更に女性の手から生み出された白い靄が、恵美の下腹部から臍までをまるで舐める様にゆっくりと包み、
脇腹から胸までは白い靄が一気に飲み込んでいった。

『い・・・息が・・・くる…し…』
 恵美のまだ未成熟な膨らみをを白い靄が包み込んだ時、まるで胸を締め付ける様な息苦しさが恵美を襲い、
恵美は夢の中で意識を失った。
 女性は今までに無く妖しく微笑み、『明日貴方は完全に大理石の石人形に変わるのよ』と呟き、消え去った。

 翌日、恵美は深刻な状態に陥った、両手足は完全に大理石に変わり、首から下も皮膚まで大理石化していた。
胸の皮膚が大理石に変わった為に肺が圧迫され、軽い呼吸困難に陥っていた。
 皮膚の八十パーセント以上が大理石化し、十分な皮膚呼吸が出来ないにも拘らず恵美が朝まで生きていた事は、
まさに奇跡としか言い様が無かった。

 僅か一日で急激に進行した恵美の病状に祥子は戸惑っていた。
 祥子は触診の為、恵美のパジャマを肌蹴させ、白い大理石に変わった小さな丘に手を添えてみる。
ひんやりとした石の感触、だがその下で打つ心臓の鼓動は弱弱しくなっていたが確かに感じる事が出来た。
 心電図は役に立たず、祥子にとって唯一人工呼吸器だけが恵美の命を繋ぐ頼みの綱だった。
 恵美は時折虚ろな瞳で辺りを見回し、祥子の姿を見つけると残された僅かな体力で微笑んで見せた。
 その姿に心を打たれた祥子はこの時、ある決意を抱いた。

 その日の夜、祥子は恵美のベットの側に椅子を持ち込みそこに腰掛け、一晩中様子を伺う事にした。
 しかし、祥子が直ぐ側で控えていても、恵美を大理石の石人形に変える女性は恵美の夢の中に姿を現す。
 夢の中に現れた女性は白く美しい掌でまだ温かく弾力のある恵美の頬を優しく撫で始めた。
すると手の平から生み出された白い靄が、恵美の身体にゆっくりと染み込んでいく。
 白い靄が染み込み始めた恵美の身体は、内部まで大理石に変わり始めていた。
長い恵美の髪の毛が大理石に変わり、急激に重さが変わった為に擦れているのかシャリシャリと音を立てていた。
 つい先程まで柔らかかった頬も白い大理石へと変わり始め、白い靄が恵美の頭部をすっぽりと包み込んだ。
白い靄が恵美の頭部から消えた時、夢の中の恵美の身体は冷たく白い大理石の石人形へと変わり果てていた。

 その時、恵美の肉体も夢の中と同じ様に大理石の石人形へと変わり始めていた。
側で控えていた祥子も当然その異変に気がついたが、為す術も無く、ゆっくりと恵美が石人形に変わり行く様を、
指を咥えて見守る事しか出来なかった。

 恵美が大理石の石人形に変わり果てた瞬間、祥子の側に恵美の夢の中に現れていた女性が現れ微笑んだ。
女性は驚く祥子の頬に手を伸ばし妖しく微笑むと、一瞬の内に祥子の身体を白い靄をで包み込む。
「貴方も大理石の石人形に変わるのよ」
 祥子を包んでいた靄が晴れると、そこには白衣を着た大理石の石人形が出来上がっていた。
目を開き、驚きの表情のまま、自らの身に何が起きたか理解する間も無く祥子は大理石の石人形に変わり果て、
白い大理石の瞳で永遠に、ベットに横たわる大理石の石人形の恵美を見守り続ける事になった。

 二人を石人形に変えた女性は再び白い靄に変わり、やがて靄は本へと姿を変えた。
本は白紙のページを開いたまま暫く宙に浮いていたが、篠中恵美、高月祥子の名前を本に刻み込み、
空中に融ける様に消えていった。

 翌朝、篠中恵美と高月祥子の事を覚えている者は無く、二人は静寂に包まれた病室で永遠にその姿を留めた。

 数ヵ月後、とあるインターネット&漫画喫茶。
 そこで一人の少女が一冊の漫画本を手にしていた、漫画のタイトルは夢幻の静寂。
女性の名前の話が幾つも載ったその漫画に描かれている最後の登場人物は、この時は篠中恵美と高月祥子だった。
 数日後、漫画本は新たな名前を書き加え、また何処かへと消えていった。

 夢幻の静寂・・・、古くは巻物等の姿で人の前に現れ、時代と魅入った人物に合わせてその姿を変える。
この書物を誰が何の目的で生み出し世に放ったのか、それを知る者は居ない。
 本の姿をした魔族であるといった説もあるが、真実を知る者は誰もいなかった。


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