作:愚印
ここから先は行っちゃだめ
絶対ダメだからね
ねえ約束して
絶対に行かないって
「清美、やっぱり止めようよ。あぶないって。」
「何を今更怖気づいてんのよ。洋子だって賛成したじゃない。」
清美と呼ばれた少女は苛立たしそうに眼鏡を抑えると、洋子と呼んだ少女を睨み付けた。制服に身を包んだ二人は、それぞれが手に持つ懐中電灯を頼りに長い通路を寄り添うようにして歩みを進めていた。
清美と洋子は、新聞部(といっても部員は清美と洋子の二人だけしかいないのだが)の取材のためにこの場を訪れていた。
二人が所属する新聞部は、つい先日、生徒会から部員減少を理由に部費のカットを通告されていた。今後も部を存続させるためには、スクープ記事を書いて発行部数を伸ばす以外手立ては残されていない。編集長である清美は、解体を目前にした旧校舎に突如現れた少女の霊に着目した。ここ最近、学生、教師を問わず話題になっている幽霊騒動。目撃例の多い事件だけに、悪戯であれ、本物であれ、何らかの出来事に遭遇する可能性が高いと判断したからである。
洋子が周りを伺いながら、少し小声で反論する。
「だって、やっぱり怖いし、ここはもうすぐ取り壊されるって言ってたし、それから…。」
「シッ。ねえ、何か聞こえない。」
清美は袖を引いて、洋子の言葉を遮った。
「やだ、清美。変なこと言わないでよう。」
「いいから黙って!!」
清美の有無を言わさぬ言葉に気圧されて、洋子はしぶしぶ口をつぐんだ。二人は歩みを止め、静かに耳を澄ます。
《ここから先は、進んじゃダメだよ。》
目の前の闇から、かすかに少女の声が聞こえてきた。
《絶対にダメだよ。》
それは次第に大きくなり、明らかにこちらに近づいてきている。
突然、目の前の闇が揺らぎ、真っ白な髪、真っ白な肌、真っ白な服を着た幼い少女が二人の目の前に現れた。少女の身体は透き通っており、頼りなげに宙に浮かんでいる。
「ひいいい、言ってるそばから出たー。」
目を見開き後ずさりしながら、少女を指刺す洋子。眼鏡の奥で目を輝かせながら、目的の存在に会えたことに口を綻ばす清美。
「ほら、驚いてる暇があったら写真よ、写真。」
「あわあわあわ、そ、んなこと言ったって、こ、腰が…。」
「もう、だらしがないわね。貸しなさいよ。」
カシャ、カシャ、カシャ。
洋子からカメラを奪い取った清美は、少女の霊に向けてレンズを向ける。透き通った少女は、フラッシュの光にも瞬きすることなく、じっと二人を見つめていた。
《お姉ちゃんたち、約束してくれる?こっから先は、行っちゃ駄目なの。》
洋子は声を出そうとしたが、うまく咽喉を震わすことができない。ただ、ヒューヒューという掠れた呼吸音が繰り返されるだけだった。
《行かないって約束して。》
「ねえ、なんで先に進んじゃ駄目なの?」
清美はしつこく迫る少女のただならぬ様子に、相手が幽霊であることも忘れて聞き返した。そこには、自称記者の卵としての好奇心もあった。
少女の顔に困惑が浮かぶ。
《絶対、ゼッタイ、ぜったい、駄目なの。ここから先は、行っては駄目なの。》
しかし、質問には答えず、再び同じ内容の言葉を繰り返すだけだった。
《ねえ、約束してくれる?ここから先へは進まないって。》
「だからなんで…。」
《ねえ、約束してくれる?ここから先へは進まないって。ねえ、約束して。》
いいかげん同じ言葉の繰り返しに業を煮やした清美は、少女の文字通り透き通った瞳を見つめ返し、コクリと一つ頷いた。
「わかったわよ、約束してあげる。」
《ほんとう?お姉ちゃんありがとう。そっちのお姉ちゃんは約束してくれないの。》
洋子は目の前の現象についていけず、ただ口をパクパク動かすことしかできないでいた。
「ごめんなさいね。洋子はちょっと無理みたい。」
代わって清美が答えを返す。
《まあいいや。じゃあ、お姉ちゃん。約束したからね。ここから先へは進んじゃ駄目だよ。絶対にダメだよ。》
スウー…。
言い終わると同時に、少女の輪郭が水に溶ける絵の具のように滲み、ゆっくりと闇の中へ消えていった。
「あっ、待って。まだ聞きたいことが…。消えちゃったか。」
少女の消失と入れ替わり、堰を切ったように洋子の悲鳴が響き渡った。
「ひいいいいいいい、ゆううううゆうれい、ほぅわたああああ、ほんとにでたあああああああああああ!!qあwせdrfgtyふじこlp!?」
「遅いのよ、今ごろ。」
ゴツン。
間髪いれずに、清美の鉄拳が洋子の頭に炸裂する。
「いったーい。何すんのよ。グーで殴ったら痛いでしょう。」
頭を抱えてしゃがみこみ、抗議の声を上げる洋子。それを受けて、清美の右腕では再び拳が握られようとしていた。
「まったく、しっかりしてよ。せっかくの未知との遭遇だったのに。洋子が協力してくれてたら、もっといろいろ聞けたかもしれないのに。」
「ごめーん。でも、だって、幽霊よ。本物よ。透き通ってたのよ。びっくりするなって言うのが無理よう。」
洋子は涙ぐみながら上目遣いに清美の、特に右手の様子を窺っている。そんな彼女を、清美は呆れたように眺めていた。
「幽霊っていったって、友好そうな可愛い女の子だったのよ。怖くなんてないわよ。ああ、でも感激。私、幽霊と話をしたのね。写真もとったし、ちゃんと写っていたらいいけど。でも、本物に会えるとはラッキーだったな。スクープ間違いなしよ。」
「ねえ、もう帰ろうよう。幽霊に会えたんだからもういいでしょう。ねえ、帰ろう?」
怯えを含んだ洋子の言葉が、清美の達成感に水をさす。清美は首を横に振って、洋子の意見を否定した。
「だめよ。この奥に何があるのか、なんで少女が幽霊になったのかがまだわかってないじゃない。すべての謎はこの奥に隠されていると思う。記者としての勘がそう言っているわ。」
「ダメだよう。あの子、言ってたじゃない。絶対、先に進むなって。清美、行かないって約束したでしょう?」
「あれはアレ、これはコレよ。それに考えてみて。あの少女が幽霊でいるのは、何か心残りがあるからよ。その原因を解明し、問題を解決して成仏させてあげるのが、私たち生きているものの役目ではないかしら。」
何度も頷きずれる眼鏡を抑えながら、使命感に燃える瞳で少女が消えた闇を見つめる清美。しかし、そんな彼女の決意に、再び洋子の言葉が水をさす。
「とかなんとかいって、結局は記事にしたいだけでしょう?決定的独占スクープとか何とか銘打って。やめとこうよ。相手は幽霊だよ。やばいって。ねえ、帰ろうよ。幽霊と会えただけで十分だよ。」
いちいち癇に障る言葉に、清美は洋子の顔をキッと睨み付けた。
「帰りたかったら帰ればいいわ。わたしは洋子が何と言おうと奥へ進むわよ。洋子一人で帰ればいいのよ。」
そんなことを言いながらフンッと顔を背けると、洋子を無視して少女の消えた暗闇へと足を踏み出していった。その姿が漆黒の闇に溶けていく。ついには懐中電灯の光だけになり、揺れながら少しずつ洋子から離れていった。
「そんなあ。ここから一人でなんて、怖くて帰れないよ。ねえ、置いてかないでよう。まって、待ってったら。」
這うようにして、洋子は清美の後を付いていくしかなかった。
「ねえ、清美ぃ。なんだか寒くない?」
「ちょっとね。」
闇の中を手探りしながら二人は進んでいた。懐中電灯に先の闇を晴らす効果はなく、二人は仕方なく足元を照らしていた。粘りつくような闇は、二人の不安を嫌が上でも掻き立てていき、全身を冷たい汗で湿らせていった。
《お姉ちゃんたち、来ちゃったんだ。あれだけ来るなって言ったのに。来ないって約束したのに。》
闇の中に忽然と浮かび上がる少女の姿。
「ひいいいいい。でたー!!」
洋子の咽喉から搾り出される甲高い悲鳴。
「ねえ、あなたはなんでここにいるの?」
怯えて逃げようとする洋子の襟首を掴みながら、清美は少女に質問した。
《じゃあ、お姉ちゃんたちは『なんで生きてるの?』っていう質問に答えられる?》
予想に反して、少女が逆に質問を返してきた。
「それは、そのう。」
飾りのないストレートな質問に口篭もる清美。しばしの沈黙の後、少女は口を開いた。
《ねっ。答えられないでしょ。それとおなじことだよ。わたしは今、ここにいる。そのことに意味なんてないよ。》
幽霊とはいえ子供に言いくるめられた清美は、苛立ちを隠そうとせずに質問を変えた。
「幽霊になったきっかけとかあるでしょう!!お姉さんたちにできることがあれば、なんでもしてあげるわよ。」
「清美、私を巻き込まないでよう。」
「ここまで来て、文句を言わない!!」
二人の掛け合いを興味深そうに眺めながら、少女は口を開く。
《わたしは幽霊なんだ。ねえ、幽霊って何?》
「えっ。ゆ、幽霊っていうのはね。うーんと。」
「ほら、ほら、なんていうのかな。ほら、清美。ちゃんと答えてあげて。」
恐怖でブルブルと震えながら、洋子は清美に答えを催促した。
「あなたは死んだのよ。何か心残りがあるから、ここにいるんだと思うの。ねえ、そのときのことを思い出して。私達に打ち明けてみて。力になってあげるから。」
「そんな、ストレートに言ったらショックを受けちゃうよう。もっとオブラートに包んで、遠回しに…。」
「この際、自分の立場ってものをハッキリさせたほうが彼女のためよ。」
少女そっちのけで議論する二人。少女は小首をかしげ、考える素振りを見せた。
《ふーん。幽霊って残留思念かなんかのことなのかな。それなら、わたし、幽霊じゃないと思うよ。》
「えっ、…。」
「…。」
二人は、少女を取り巻く空気が一変していることに気が付いた。淡く揺れるような姿は変わらないが、周りの闇が凝縮しその陰影をくっきりと浮かび上がらせている。
…。
…。
…。
…。
心を蝕むような重い沈黙。
二人の体感温度が急速に下がっていく。先ほどまでかわいいと感じていた少女の容姿が、整いすぎていて不気味に見えてきた。
沈黙に耐えきれず、清美が声を発する。
「じゃあ、あなたは何なの?」
ゴクリッ。
二人の唾を飲み込む音が、同時に辺りへと響き渡る。
《さあ、なんなんだろう。わかんない。でも、これだけはわかるよ。》
予想に反して、あっさりとした答えが返ってきた。少女の言葉の抑揚は初めからなんら変わっていないのだが、怯える二人にとっては凄みが増しているように感じられた。
少女の視線が清美に突き刺さる。その木の洞のように感情のこもらない瞳に、清美は肩をピクリと震わせた。
《お姉ちゃんは約束を破った。契約を破ることは重罪。お姉ちゃんには罪を償ってもらうから。》
「ちょっと待って!!契約って何よ。罪って何よ!!わたしはそんなつもりじゃ。」
清美の抗議を気にすることなく、今度は洋子の方へ目を向ける。その感情のこもらない冷たい瞳に貫かれた洋子は、ガクガクと全身を引き攣らせた。
「ひいいいいいいいい…。」
《そっちのお姉ちゃんは約束していないから、もう帰っていいよ。》
少女がそういうと同時に洋子の姿が闇に溶け、清美は一人取り残されてしまった。
「洋子、洋子!!冗談やめてよ!!ねえ、どこに行ったのよ!!ねえ、あんた、洋子を何処へやったのよ!!」
気の強い清美も、突然一人きりにされると心細く、錯乱したように洋子を姿を探し求めた。
《安心して。もう一人のお姉ちゃんは、家のベッドに送り返してあげたから。今頃はあったかいベッドでぐっすり眠っていると思うよ。》
洋子の無事を聞き、清美は辛うじて落ち着きを取り戻す。
「私をどうするつもりよ。」
幾分恐れを含んだ瞳で、清美は少女を睨み付けた。
《罰といっても死ぬほど痛い思いはさせないから。》
少女がゆっくりと右腕を上げる。周りの空気がキンッと音を立てたように清美は感じた。
「何を言って、いっ、いや、やだ、なによこれ?」
少女を問い詰めようと一歩踏み出そうとして、足の裏が張り付いたように動かないことに清美は気が付いた。足元に目を向けて、清美は息を飲む。彼女を中心に直径50cmの円を描いて床が凍りついており、霜が彼女の靴を這い登ろうとしていた。
《えっとね。これまでは、わたしを見てすぐ逃げる人や、約束を守る人ばっかりでつまらなかったんだ。だから、その分、お姉ちゃんで楽しむつもり。》
霜は靴を白く染め終わると、紺の靴下へと触手を伸ばす。醒めるような紺地が、瞬く間に白く濁っていく。足首に走る焼け付くような痛みに、清美は顔をしかめた。
「なんなのよ、これは!!こんなのいやよ!!」
靴下から更に上へと、氷の結晶は範囲を広げていく。身悶えする身体に合わせてひらめいていたスカートが、結晶の付着と共に動きを止めた。スカートの中も氷結の侵食は進んでおり、針を刺すような痛みが太腿の表裏を支配し始めていた。
「痛い。お願い。助けて。約束を破ったことは謝るから。ねえ、お願い。」
《それぐらいの痛みは我慢してね。罰なんだから。》
そこまで無表情だった少女が、始めてニッコリと笑った。黒点のように闇を覗かせていた瞳が、赤く輝き始める。
《お姉ちゃんには罰として、ここでずっとわたしの相手をしてもらうから。でも、人の寿命は短いから、魂ごと肉体を凍りつかして保存するね。だいじょうぶ、凍りついている間も考えたり、泣いたり、声を出したりできるようにしてあげる。そうじゃないとわたしもつまらないからね。》
「誰か助けて。お願い。」
丈の短いセーラー服から覗く小さな臍のくぼみには、びっしりと氷の結晶が張り付いていた。その白が作りだす陰影は立体感を際立たせ、艶かしい曲面をくっきりと浮かび上がらせている。
《わたしは悪くないよ。だって、わたしはちゃんと最初に言ったよね。ここから先に進んじゃいけないって。》
手に痛みを感じ、信じられないといった表情で覗き込む清美。そこは斑紋のように氷の結晶が浮かび上がり、少しずつ成長していた。凍結した肉体は痛みを発することで、その変化を如実に清美へと伝えてくる。
「痛い。体が動かなくなってく。こんなの嘘よ。」
赤いスカーフ、紺の襟も、白が覆っていく。密かに自慢だった服を押し上げていた二つのふくらみも完全に動きを止め、今は痛みだけを伝えていた。
《約束したもんね。ここから先には進まないって。》
細い首を辿り、うなじ、顎、頬と駆け上ってくる氷の結晶。それに伴って襲ってくる針の筵でくるまれたような痛みが、清美に意味のない叫び声を上げさせていた。
「ああ、ああ、あああああああああ。」
《悪いのはお姉ちゃんだよ。契約を破ったのはお姉ちゃんだもん。わたしは悪くないの。そうそう、昔は署名がないと契約が成立しなかったらしいけど、今では口頭の契約も有効だからね。》
眼鏡のレンズが瞬時に曇り、ピキッと一筋の罅を走らせた。ポニーテイルで纏められた髪にも結晶が付着し、石膏像のように白く染め上げられている。
《ずっと一緒にいようね。わたしの初めての玩具。》
「いやだあああ、だれかたすけてよおおおおおおおおおお。」
幾層にも氷の結晶で覆われた頬肉が軋みを上げながら揺れ、白く染まった咽喉からかすれたような声をひねり出していた。
《そうだ、お姉ちゃん、思い出したよ。さっき、わたしが何なのかって聞いたよね。やっと、思い出した。わたしはお姉ちゃんたち人間には『悪魔』って呼ばれてたと思う。》
透き通っていた少女の身体は、いつの間にか完全に実体化していた。
《もちろん、ここも人間の世界じゃないよ。じゃあ、今更だけど改めて言うね。今後とも、よろしくね。そして、ようこそ魔界へ。》
おわり