GORGONEION -The verses of the evil- 第一話「悪魔召喚」

作:いチノマキ


―――闇。仄暗く、何処までも果てなく続く闇。それこそが、私たちの生きてきた世界の凡てであった。その常しえの闇に、一点の常ならざるものが紛れ込んだ。「ひかり」。そうか、これが「ひかり」というものか。私たちは、その「ひかり」に向かい、手を差し伸べた。

・・・キュッ、・・・キュッ。薄日の差し込む錆びた倉庫内に、乾いた音が響く。
「ねえ、やっぱ、やめようよ。こんなこと・・・」
ぼそっとささやく、震えた声が倉庫中にこだまする。その震えをかき消すように、ナイフのように尖った声が倉庫中に響く。
「何が『やめよう』ですって?面白そうだからってついてきたのは、どこのどちらさまかしら。それに何いまさらびびってるの?ここにいること、それ自体であなたも『同罪』じゃないの?」
鋭い声を立てた、その少女は、外野の声など素知らぬふりで、クリアフォルダを片手に持ちながら、倉庫の床にチョークで歪な幾何学模様を描く。少女の名は、小山内香織。彼女の父親は、近年のベストセラーであるファンタジー小説「エイブラハムと500の夜」の訳者として知られる、フランス文学者・小山内真吾である。今日は、中間試験で午後の時間が空いたのに託けて、あることをするため、わざわざ人目から離れた、廃工場の倉庫にやってきたのだ。
「ねえ・・・、やっぱやめようよ。・・・悪魔を呼ぶなんておかしなこと」
怯えた調子で、香織に懇願するこの少女の名は、増田梨々。彼女の父親は、京葉大学の教養課程で仏教学を教えている。今日この場にきた理由は、個人的な興味以上に、一旦アクセルを踏みだすとブレーキの効かない、友人を止めるためでもあったのだ。
「『おかしな・・・こと』?私は真剣よ」
香織は、怯えた表情の梨々をせせら笑う。今日は、フランスの若者たちの間で流行っている「ル・デモン・ファミリエ」と呼ばれる、「悪魔を呼ぶ儀式」という一種のゲームを行いにきたのである。梨々を呼んだのは、このゲームに四人の人間が必要であり、今日親しい中でたまたま予定が空いていた友人の中に、梨々がいたからに過ぎないからだ。
「さ、描けた、描けた。仕上げはまず、サノっちからね」
香織は、床に模様を描き終えるや、チョークを友人の佐野和泉に放る。
この「ル・デモン・ファミリエ」というゲームには、幾つかの過程がある。その過程は以下のようになる。
1.ゲームの参加者の内、主催者が文様を描く。
2.主催者が文様を描き終えたあと、その文様を円で囲むように、参加
者全員で、「The fool hath said in his heart there is a God(愚か者の心に神は存在する)」の文字をひと単語ずつ交代で書く。
3.書き終えたあと、参加者全員で心を一つにして悪魔を呼ぶ。
というものである。
佐野和泉は、チョークとクリアフォルダを香織から受け取る。和泉がちらりと見たところでは、クリアフォルダの中には、フランス語の新聞記事と、香織の書いたメモが挟まっている。メモには、「The fool」がどうとやら、何かしらの英文が書かれている。
「で、このメモに書いてあるもん一文字ずつ書いたらええのね。・・・
しっかし、フランス言うわりには、なんで英語なんやろ・・・」
和泉は、香織に聞こえるようにわざと声を大きめにして、「The」の文字を書く。
「ちょっと!サノっち、そんな雑念入れていたら悪魔が来ないでしょ!
・・・まあ、この文章が聖書から取られているなんて、普通の人が気づくはずもないでしょうね。それに、こんなゲームをいち早く知れるなんて、教養とセンスのある私だからできることだけど」
香織の明らかに人を見下した自慢話を、じっと黙って聞いている影が一つある。それが、このゲームの四人目の参加者、山県紫苑である。自分には、小山内香織のように世間的によく知られた父親がいるわけでない。ごく普通の会社員である。しかし、この香織という女のひけらかし具合には、毎度となく呆れる。どんなに父親が社会的に成功していようが、それが本人にとって何の関係があろうというのか。まるで、この間の授業で習った『山月記』の李徴のように、矮小な自分を飼い太らせているだけではないのか。もしくは、虎の威を借る狐。そう言えば、どことなく香織のヒステリックにつり上がった目は、狐らしくも見える。そんなことを思いながら、紫苑は含み笑いを咳払いで殺した。
「紫苑。つぎ、あんたの番よ」
そう言いつつ、和泉はチョークとクリアフォルダを紫苑に渡す。紫苑は悪魔を呼ぶなんてくだらない少女趣味だと思いつつ、和泉の言葉に従う。そうして何巡目かが過ぎて、歪な文様の周りに文字の円が描かれた。「さて、書けたわね。じゃ、悪魔を呼ぶわよ。手をつないで」
大仰に香織が声を立てる。いよいよ、その悪魔様とやらを呼ぶらしいと、紫苑は思いつつ、西洋趣味にかぶれた香織のチンケなプライドに針を刺すのも野暮だからと、素直に香織のいうことに従う。横を見ると、和泉も訝しげな表情をしている。
「じゃあ、次は呪文を唱えるわよ。私の後についていって」
いよいよ、香織様お得意のフランス語講座が始まるのか。そう思いつつ
、全員が口を閉じ、耳を傾ける。
「ル・デモン、ジュ・ヴ・ザペル・ル・デモン」
香織の口から、おおよそネイティブの発音でない、日本語のカタカナ発音の、フランス語らしき言葉が出る。意味はわからないが、悪魔がどうたらという意味なのだろう。
「さ、みんなも続けて」
香織の言葉に従い、皆が先ほどの言葉を繰り返す。香織様のご機嫌を損ねないためにも、たとえカタカナでも、鼻が詰まったような発音をするのがコツである。
「で、こうすれば悪魔が出てくるってわけ」
しかし、香織の言葉から3分の時間が経っても、一向にその悪魔とやらが現れる気配は無い。やっぱり、「悪魔を呼ぶ」ことなど、ただの冗談だったのだろう。しかし、冗談で済まされるうちはまだいい。
「…ちょっと。この中の誰かが、絶対悪魔なんて出てこないって思ったでしょ」
香織は、苛立った声を立てる。この自己中心的な女は、何かあるとすぐに他に責任を押し付けようとする。それが、この女のいつもの癖だ。
「梨々!どうせアンタが、来ないとか余計なこと考えたんでしょ」
香織の、一方的な罵りは続く。犠牲者が自分でなくてよかった。そう思い、紫苑は和泉に目配せをする。
「ねえ・・・、ウチ試験勉強あるし、ここいらで今日は終わりってことにせえへん?」
和泉は精一杯の作り笑顔で、香織に話しかける。紫苑は、こんな風に自己中女の我がままに振り回されるなら、いっそのこと悪魔が来てくれればいいのにと思った。
その時である。
不意に、風の音に紛れて、声が聞こえた気がした。
「・・・ねえ、なんか今、何か聞こえなかった?」
「んな、アホなことあるはずないって」
しかし、今度はまるで怪物の腹の中にいるような、倉庫全体に共鳴する声が響く。

「・・・・・・、la porte・・・・・・・・・」

その、つむじ風のような声は鉄骨に共鳴しながら、かき消えた。
「・・・え?ね、ねえ、今の、・・・ただの空耳、よね?」
悪魔を呼ぶといったはずの香織が、途端におどおどとし始める。彼女自身、今までのことはただの遊びで、実のところ、まさか本当に来るはずはないと思っていたのだろう。
「・・・・・・La porte du purgatoire(煉獄の門)」
その時である。頭上から、乾いた声がした。それも、少女の声である。
その声に、皆が顔を上に向ける。頭上には、青みがかった銀髪の少女が宙に浮いている。
「・・・ちょっと、これ何かの冗談やろ」
和泉の声に呼応するかのように、一同は驚き、その動きを止める。目の前の光景があまりに現実離れしているからだ。
しかし、その中で、一人目を輝かせる者がいた。香織である。
「この子・・・、悪魔だわ!私たち、悪魔を呼んだのよ!」
しかし、香織の声に反し、少女は、言葉を吐き捨てる。
「Hercula, battez-les.(エルキュラ、やってしまいな)」
その瞬間に、少女の背後で巨大な空気の渦が沸き起こる。そして、香織たちの目の前に見えたものがある。腕である。それも、長さ15メートルほどもある怪物の、巨大な腕であった。
その腕は、まるで巨大な木の幹が倒れるように、香織たちの目の前に迫ってくる。その風圧は、さも木の葉のように香織たちを吹き飛ばした。
倉庫内に立ち込めた埃が晴れ、そこに見えたのは、まるで文様のある所を狙ったかのように振り下ろされた、怪物の腕である。
「・・・和泉!」
そして、その怪物の手は、和泉を掴んでいた。和泉は必死に抜け出そうと、もがく。だが、そうすればするほど怪物はその手をきつく縛っていく。
「い、痛い・・・、離して・・・!」
和泉の悲鳴に反して、怪物の手は、和泉を掴んだまま離す気配を一向に見せない。香織ははっと気づいたように目を凝らす。そこでは、先ほどの少女が腕を固く握りしめていた。さも、少女の動きと、怪物の動きとが対になっているように見える。そして、少女は、まるで山道を下るように、怪物の腕を伝って徐々に和泉に近づいていく。
少女は、固く腕を握る。その瞬間、倉庫内に和泉の悲鳴が響く。和泉の口からは、声にならない、微かな音が漏れる。
まるでそれを嘲り笑うかのように、少女は和泉の隣へと降りた。そして、和泉の首筋にキスをする。その瞬間に、ゴツゴツとした音をたて、和泉の身体は痙攣を始める。一体、何が起こっているというのか。ばねのように振動を繰り返す和泉の身体からは、まるで煙が吸い寄せられるように、薄緑色の発光体が、少女の口に向かって流れこんでいく。そして、それと呼応するかのように、和泉のシルエットが生気のない象牙色へと変わっていく。そして、幾許かの時間が経ち、少女は、握った手を振り解く。その瞬間に、動くことを止めた和泉の身体と、床とが硬い音を立て、ぶつかり合う。
香織は、和泉の身体を凝視する。梨々はパニックに陥ったように出口に向かって逃げ出す。だが、出口の前には、もう一人の少女がいた。白い髪のその少女は、まるで何かを憐れむかのように、梨々を紅く光る目で見つめる。
その瞬間、梨々の身体から、先ほどのように、発光体が湧き出て、白い髪の少女に向かって流れ込む。
そして、梨々は数歩と歩かないうちに、その動きを止めた。
「分、かった、わ・・・、今、何、が、起こっているか、が・・・」
香織は震えながら、その場に立ちつくす。
「この子たち、私たちを石にするつもりよ・・・」
倉庫の出口から、陽の光が差し、象牙色へと変わった梨々に反射する。
香織は、まるで夢遊病者のように、ふらふらと動き出す。そして、檻の中で暴れる動物のように急に暴れだして、文様をかき消そうとする。だが、その瞬間に、文様の中から紅い蛇が這い出る。その蛇は、香織の太腿に絡み付き、香織の身体から湧き出る発光体を飲み込みながら、香織を象牙色へと変えていく。
紅い蛇は、次第に文様の中からその身を現す。そこに現れたのは、ワイン色の豊かな髪を持つ少女であった。紅い蛇は、少女の髪の一房であり、まるで独立した意思を持つかのように、香織を貪っていく。
そして、その少女は、紫苑に近づいていく。その速度は、獲物を狙うかのように、機会を窺い、その目は、紫苑をキッと見つめていた。
香織を象牙色に塗り潰した蛇が、紫苑に咬みつこうと飛び上がる。だが、その瞬間、紅い蛇は、紫苑に巻きついた部分から、火種のように燃え上がる。
少女は、突然のことに、驚き、火のついた髪を断ち切る。紅い蛇の首は切り落とされ、傷口からは、深緑色の体液がだくだくと零れ落ちる。
「 ・・・la fille a les flammes d'enfer.(この娘、「地獄の業火」を持つというのか)」
少女が、痛みに顔を顰めながら、言葉を口にした瞬間、紫苑の頭の中に声が響く。
『邪魔者は全て消した・・・、あなたには、この声が聞こえているはずよ』
その声は、確かに目の前の少女から聴こえてくるものであった。
「さっきまでのやり取りで、あなたたちの言語体系は理解したわ。これからは直接言うわね」
少女は、ワイン色の髪をくゆらせながら、紫苑に語りかける。
「先に紹介するわ。私の名前はエウリュアレ。L’ enfer・・・あなたたちの言語では『地獄』というのかしら・・・、の住人よ」
「エウリュアレ、私にも一言喋らせろ」
青みがかった銀髪の少女が、不機嫌そうに言葉を漏らす。
「いいから。少し静かにしてなさい」
エウリュアレが少女に向かい、言葉を吐き捨てたのち、再び紫苑に顔を向ける。
「この頃、とはいってもたった数か月前からだけれども、頻繁にこっちの世界から、声が聞こえたの。けれども、声が聞こえただけでは私たちを呼ぶことができないの。私たちを呼ぶには、” La clef”(鍵)とな
る人間が必要なのよ」
「・・・?」
紫苑は、エウリュアレの言葉に首を傾げる。日本語を理解したとは言ってはいたが、未だこなれていないのか、よくわからない単語が出てくる。
「“La clef”(鍵)である条件は、ただ一つ。悪魔に相対する力を持つことを持つことよ。あなたには、“les flammes d'enfer“(「地獄の業火」)の力が備わっていた。この力はマティエールの一つで、悪魔を焼き尽くす力を持っているのよ」
つまり、目の前の女の言うことは良く分からないが、自分には悪魔を跳ね除ける何らかの力が備わっているということだろうか。紫苑はそう思いつつ、エウリュアレに話しかける。
「・・・じゃあ、あなたたちには早く消えてもらう。私の力で焼けるなりすればいい」
その時、エウリュアレは驚きつつも、内心何か手掛かりを得たような表情をする。
「あら、本気でそんなこと言っているの?私たちが消えるのはいいけれど、後に残った石像はどうするつもりかしら?あなたの本音は、『この子たちを元に戻してもらいたい』んじゃないかしら?」
紫苑は本音を突かれて、不意に表情を歪ませる。自慢のポーカーフェイスも、この化け物じみた女の前では、形無しである。
「いいわ。取り引きをしましょう」
エウリュアレが紫苑の表情を見て、勝ち誇った顔をする。
「三人を元に戻し、ついでに記憶も封印させといたほうがいいわね。そしたら、三つの契約が必要になるわ。
1.les flammes d'enfer (「地獄の業火」)を封印するための、烙印を押すことにしましょう。
2.決して私たちのことを口外しない約束をなさい。もし、破った場合には、les flammes d'enfer (「地獄の業火」)が今度は逆にあなたを焼き尽くすことになるわ。
3 この世界での、住居を提供すること。場所はあなたの部屋にするわ」
「待って。ならばこっちからも質問をさせて。あなたたちは、何故人間を石にしたの?」
エウリュアレの絶え間ないお喋りを遮るように、紫苑が口を開く。
「エーテルを吸い取るためよ。特に、新鮮な女のエーテルは、私たちには不可欠なのよ」
「エー・・・テル?何よそれ?」
「ether(エーテル)・・・それは、生命の根源。この世界の生命が持つ生命力のことよ。・・・質問は、それだけかしら?そう言えば、まだあなたからの答えを聞いてなかったわね」
禅問答のようで、良く分からないことばかりだが、とにかく三人が元に戻るのなら、それでいい。そう思い、紫苑はエウリュアレの言葉に頷いた。
その瞬間に、紫苑は、違和感を覚えた。自分の右腕が焼け焦げるような感触である。いや、実際に焼けているのだ。血が沸騰し、皮膚は爛れ、赤い肉がグツグツと音を立てる。次の瞬間には、紫苑の意識は掻き消えた。

「・・・紫苑?」
遠い意識の中で、誰かが、自分を呼ぶ声がする。紫苑が目を開けたその先には、携帯電話からの香織の声が聞こえる。
「ちょっと、聴いてるの?『今度の試験で教えてほしいところがある』って電話をかけてきて、さっきから返事もないって、何なの?」
その声は、まぎれもなく香織の声であった。さっきの化け物との取り引きが行われ、三人は元に戻ったらしい。ついでに、今日の午後のこと全てを、あの女は書き換えていったというのだろうか。ほっと、一息ついて紫苑は電話越しの香織に答える。
「ごめん、ちょっと寝てた」
「寝る・・・って、普通電話掛けるときに、寝るの?」
倉庫内に、橙色の陽が差し込む。気が付くと、時間は夕暮れになっていた。

「・・・ただいま」
日が沈み、紫苑は、自宅のマンションに帰ってきた。だが、紫苑の声に応えるものは何もない。母親は既に自分が子供のころに死別し、サラリーマンの父の帰りは遅い。そんな生活には、幼いころから慣れていた。
紫苑は、洗面所に行き、鏡を見る。紫苑の右腕には、ルーン文字のような文様が描かれていた。これが、さっきの女が言っていた烙印というものなのだろう。
今日の午後のことを、他の三人のように、忘れることができない自分に思わずため息が漏れる。
と、その時に、何か、動物の悲鳴らしきものが、聞こえる。それも自分の部屋からだ。
紫苑は、部屋に急ぐ。部屋に着くなり、クローゼットが半開きになっているのに気付く。そして、そこから、山羊の首が転がり落ちた。
「・・・!」
声にならない悲鳴を上げる紫苑。その声に続くかのように、クローゼットから、刃物を持った女の腕が現れる。その腕はクローゼットから抜け出し、その貌を見せる。そこにいるのは、午後に会った、あの化け物じみた女であった。
「あら、いたのね。早速、契約を済ませてきたわ」
紫苑は、表情を引きつらせる。目の前の光景も信じがたいものであるが、それ以上に、クローゼットの中は、この世の阿鼻叫喚を詰め込んだような、暗色に塗り潰されたものに変わっていた。もちろん、入れていた服などはあるはずもなく、このクローゼットは、異世界との接触点へと変わっていた。
そんな紫苑の表情を見透かして、エウリュアレが声を立てる。
「ようこそ、773H号室へ」

第一話「悪魔召喚」・終


戻る