エヌ氏の蒐集 前篇

作:固めて放置


7月の突き刺す日差しの中、何の変哲もない住宅街の通りをエヌ氏が歩いている。
地元では著名な昆虫博士として知られるエヌ氏は、紳士然とした風貌に貫録たっぷりの威厳を発し、
それにも拘らずちっとも嫌味のない温和な笑顔に、彼とすれ違う地元の住人たちも彼に対して敬意と尊敬の念を向けるのであった。

彼は街の外れにある屋敷から歩いて20分の駅から市電に乗って(彼は排気ガスを出す自動車を嫌悪していた)3駅の市内の中央の住宅街に赴き、
ライフワークとしている蒐集を始めようとするところであった。
そんな彼は英国仕立てのスーツにネクタイを締め、足首まで伸びる長ズボンからは白のハイソックスが覗いている。
オーダーメイドの革靴がエヌ氏が歩くたびにその貫録を顕わした足音を発していた。

果たしてこんな住宅街の真っただ中で、見るからに暑苦しそうな動きづらいスーツ姿で一体何を蒐集しようと云うのだろうか?
こんな自然空間とは真逆の、緑もロクにない灰色の林に彼の関心を惹くようなモノが飛び回っているとでも言うのだろうか。
その答えはじきに明らかになる。
通りの散策を続けていたエヌ氏が目を留めたのは前方30メートルほど先の、日陰になっているバス停のベンチに腰かけ、
バスが来るのを待ちながら話し込んでいる2人の女学生である。
エヌ氏は彼女たちの姿や仕草を観察し、納得したように小さく頷くと周囲に他に人の気配がないことを確認し、右手を軽く上げ人差指で空中に円を描いた。
その空間に黒い歪んだ穴が生まれたかと思うと、その穴からトカゲに蝙蝠の羽を生やしたような生き物が現われ、エヌ氏の肩に止まった。
この怪しげな生き物こそエヌ氏の使役する魔界のモンスターであり、彼の蒐集の良きパートナーであった。
使い魔は今が蒐集の時間だと得心すると、彼の肩から飛び立ち、周囲を飛び回り人の目が無いことを確認すると再びエヌ氏の元へ戻った。
エヌ氏は胸の内側のポケットから粉末状の薬の入った袋を二つ出すと、使い魔の足に持たせ、それから人間には聞き取れない声でいくつかの指示を出した。
使い魔はエヌ氏の命令を受けると、再び彼の元から飛び立った。
その姿は真っ黒にも係わらず、魔力で周囲の空間がぼかされる事で、真夏の青い空に溶け込んでいた。
エヌ氏は使い魔が飛び立つと同時に、自身も気取られないようにゆっくりとした歩調で彼女たちの元へ歩み寄った。

2人組の女学生のうちの一人は、ショートカットの軽くウェーブのかかった黒髪をした大人しそう少女で、
もう一人の勝ち気そうな女の子は、茶色がかった腰まで伸びる長い髪をツインテールに束ねていた。
思春期を迎えたばかりの2人の少女は、羽化したばかりの蝶の様にしなやかな肢体、可憐な顔立ちをしていたが、
その胸は同年代の女の子と比べてもまだそれ程膨らんではいなかった。
それもエヌ氏の気にいった。

「それでさ美佳。その後で私が言い返してやったらヒロアキの奴どんな顔したと思う」

「でもヒロアキ君泣いてたし、ちょっと可哀そうだったわ」

「いいよあんな奴、別に気にしなくたって。明日はどうせケロリとしてるんだから」

2人の話の内容は美佳にチョッカイをかけていた男子に結奈が昼休みに仕返しをしてやったというものであった。
そんな他愛のない会話を続ける2人の頭上にエヌ氏の使い魔が飛び寄る。使い魔は彼女たちの頭上を2回転すると、
エヌ氏からもらった袋をうちの片方の縁を傾け、中身の粉を真下にいる美佳に向かって振りかけた。

           ・ ・ 
「また美佳に悪いムシがついたら、今度は殺虫剤をお見舞いしてやるんだから」

「もう、結奈ちゃんったら乱暴なんだから。でもありがとうね」

そう言った直後頭上から降り注ぐ粉を吸い込んだ美佳は、目の前の結奈に笑いかけようとしたのを最後に深い眠りに落ち、結奈の膝の上に倒れ込んだ。
それを見た使い魔は今度は2人に向けて2番目の粉を振りかける。

「ちょっとどうしたのよ美佳・・・ええっ何よ、うわわわわあああ」

結奈の体を突然ズンっという衝撃が襲ったかと思うと、直後周囲の景色が大きく広がり出した。
腰かけていたベンチと地面までの距離もぐんぐんと伸び、足が地面に届かなくなる。
結奈はベンチの縁から地面に落下しないよう、美佳を抱きかかえながらさっきまでぶら下げていた両足をベンチの上に乗せる。
そうしている間にも体はみるみると縮んでいき、2人はベンチの上にちょこんと取り残された。
この一連の現象が周りの物体が大きくなったのではなく、自分たちが小さくなっているのだと結奈が気がついたか否かの瞬間―

彼女たちから5メートルの距離まで近づいたエヌ氏はポケットから細長い銀の棒と懐からは網の付いた輪っかを取り出すと、
輪っかを銀の棒の先端に取り付けた。そして三段階伸縮式の棒を伸ばすと、たちまちそれは瀟洒な虫取り網となった。
エヌ氏はそのままベンチの上の少女たちへ電光石火で距離を詰めると、両手に持った虫取り網をさっと一払いした。
ベンチの上を網が通過した後、直前までそこにいた少女たちの姿はなかった。言うまでも無いが彼女たちは纏めてエヌ氏の網の虜となったのである。
エヌ氏は網を手元まで寄せ、網の中に横たわる蒐集物を確認すると、胸の内側のポケットから2本の空っぽの試験管を取り出した。
そして網の中の2人の少女を指でひょいと摘みあげ、それぞれ試験管の中に封入すると、今度は少女の入ったそれを再び胸の内側のポケットに収めた。
虫取り網を元通りに分解し、輪っかと折りたたんだ棒をスーツの中に戻し、役目を終えた使い魔を元の世界に帰すと、
そこに広がるのは先ほどまでと同じ、ごく健全な紳士の散歩風景であった。
エヌ氏が2人を目に留めてからの全ての出来事は、ほんの10数秒の間の出来事であり、
彼が懐から網を取り出してから元の善良な散歩中の紳士の姿に戻るまでは、ほんの瞬きをする間の時間しか経っていなかった。

蒐集の最終段階として念の為に改めて周りを確認するが、今起こった出来事を目撃した者は1人もいなかった。
エヌ氏はこの2人の少女を持って本日の『蒐集』を終え、屋敷の帰路へとついた。
彼の知謀と魔力を以てすれば蒐集を続行すれば短時間の間に更に多くの蒐集物を獲る事が可能であろうが、
じっくりと慎重に、焦ることなく状況を進行し、引き際を見極める事こそが『蒐集』を長く続けるコツであり、
蒐集の成果をヒトリヒトリじっくりと吟味し、時間をかけそれぞれに合った『加工』を施す事こそが、
蒐集の対象物である彼女たちに対する最大の敬意なのである。それはエヌ氏が近年になって始めた蒐集をする上での信条であった。

そんなエヌ氏の胸の内ポケットからは、電車で屋敷に帰るまでの間中、試験管の中から助けを乞う叫び声が響いたが、
その声が他の乗客にまで届くことはなかった。

まだ日も明るい4時過ぎごろ、屋敷に帰ったエヌ氏は、外行きのスーツを脱ぎ、先ほどとは打って変った和装の作務衣に着替え、
脱いだ盛装一式を給仕に預けると屋敷の地下、倉庫として使われている部屋へと籠った。

窓も無く、天井も漆喰の壁で覆われた日の届く事のない地下室。
その部屋の奥はエヌ氏の先代が戦前から集められていた骨董品や古い書物などに溢れ、中にはエヌ氏が若い頃から蒐集していた昆虫の標本も混じっていた。
時代を重ねたそれらの品からは、この国ではめっきり見る事の無くなった情緒や風情と、幾ばくかの埃っぽさが産み出されていた。
それに対し手前側は、壁際の一台の作業台に、それを取り囲むエヌ氏の今の蒐集物を収めた蒐集棚が並んでいた。
天井からはコードで吊るされた裸電球が一つ灯っているだけであったが、壁に据えられた作業台の上は、作業中に手元を見やすくするよう
アーム型の電気スタンドが設置されていた。

エヌ氏は作業用の椅子に腰かけると、今日蒐集した2人の少女の入った試験管を、作業台に乗った試験管立てに立て掛けた。
狭い試験管の中で、美佳と呼ばれていたショートカットの少女は、薬の効果で未だ深い眠りにつき、
結奈は手をばんざいにした状態で身動きが取れないまま、ぴっちりとガラスの管の中に封入されていた。
今まで暗い処にいた結奈は、エヌ氏に捕獲されるまでいたバス停の景色とは打って変った周囲の景色に目をぱちくりとさせ、
自分より遥かに巨大なエヌ氏の姿を認めると驚きに目を見張った。
エヌ氏はそんな彼女に優しく微笑み返すのであった。

縦が15センチ、横がその半分ほどの長さのガラスのケースを用意したエヌ氏は、その底に真白い綿を敷き詰めると、
眠りについたままの美佳を試験管から摘みあげ、優しく横たえた。
まるでガラスの棺の中に横たえられたようだが、まだ生命のある証拠に、呼吸で胸が上下しているのがわかった。

エヌ氏は針を片手に持つと、その針で美佳の制服のブラウスのボタンを、肌を傷つけないよう慎重に一つ一つ外していった。
ボタンが一つ一つ外れていくごとに、少女の白い肌が露わにされていく。ボタンを全て外し終えるとブラウスの前をはだけさせ、
手首の辺りまで捲くると、捲くったブラウスの前の部分と袖の部分をまとめてピンで留めた。
その時捲くれたブラウスで少女の手の甲や美しい指が隠れないように気を付けるのをエヌ氏は怠らなかった。
少女の白い痩身が、華奢な両肩が、静脈の透けて見える上腕が、一切の身じろぎをする事なくエヌ氏の眼前に広がった。
その染み一つない身体は、羽化を控えた蝶の様に少女から大人に移り変わる直前のハッとするような変化のただ中にある美しいしなやかさを秘め、
それもまたエヌ氏の審美眼の確かさを証明するものであった。

エヌ氏は指の腹で優しく少女の全身を万遍なく押し、ケースの底の白い綿に均一に埋まるよう調節した。押し出され溢れた綿が横から盛り上がる。
消毒液の染み込んだガーゼを手に取ると、少女の身体の表面を丁寧に拭き取っていった。
少女の胸はまだし始めたばかりであろうハーフトップの白いブラジャーが付けられ、
スカートの中はブラとセットのサイドのラインの長い、まだ子供らしいショーツを履いていた。
エヌ氏は少女のブラジャーで保持された膨らみかけの胸の形が崩れないよう、慎重に乳房を拭き、
スカートの中の下着をずらし、拭き終わった後は丁寧に元に合った位置に収めた。
最後は少女の履いていた下履きと靴下を脱がし、素足を丁寧に清めていった。

これで『下準備』はすべて完了した。

エヌ氏は引き出しの手のひらに収まるサイズの注射器を取り出すと、戸棚に入っていた瓶の中の薬品を注入した。
紫色の怪しい液体が、注射器の管の中でその存在を主張していた。

エヌ氏は少女の首筋をもう一度消毒液の染み込んだガーゼで拭きとると、首筋をそっと一撫でした後注射針を突き刺した。
管の中の液体が、少女の体内に注入されていった。
少女の体内に入った紫色の液体は、少女の全身に少しずつ染み込んでいくと、血液や体内の水分と結びつき、硬質化していった。
薬品は少女の身体に少しずつ染み渡り、呼吸をすることで起こっていた胸の上下動もやがて止み、やがては手足の末端まで行き渡った。
体内は蝋細工の人形の様な状態になったにも係らず、表面の肌の張りや瑞々しさは全く失われていなかった。
目を安らかに閉じ、上半身は下着姿で、下半身は素足にスカートを履いた状態でガラスのケース横たわる少女はさながら蝶の標本であった。
ハの字に広げた手に絡まったブラウスはまるで純白の蝶の羽の様である。

この状態でも彼女は死んだ訳ではなかった。
薬品の効果と、ある種の魔法の力も働く事で少女の代謝は完全にゼロになり、全く老いる事はない、永遠の身体を手に入れたのであった。
尤も少女の意識はバス停で向かいの親友に笑いかけようとしたのを最後に覚める事のない眠りについている訳だが。

エヌ氏はケースに透明の蓋を被せると、目の前まで持ち上げ、新たな標本の出来栄えを満足そうにしげしげと観察した。
そしてケースの蓋に蒐集をした場所と今日の日付を記したラベルを貼り付けるのであった。
それを終えると残ったもう一人の少女に目を向けた。

つづく


戻る