作:日常の混沌
戦場を、一陣の風が舞う。
その影は、誰も追うことなどできはしなかった。
彼女に魅入られたものは、例外なく物言わぬ肉塊と化す。
人は彼女を、戦場に舞う風――舞姫と呼んだ。
夕暮れ。
世界は、真っ赤に染まっていた……。
空も、大地も、周りに伏した肉の群れも、そしてそこに凛として立つひとつの影も。
果たして世界がここまで赤いのは、沈もうとする太陽のせいだけなのか……。
影が、振り向く。
その表情は、夕日に染まってよく分からなかった。
「お嬢様は……?」
影が、語りかけてくる。感情のない声。いつもの声。今は、その感情のない音が、無性に寂しく思えた。
「大丈夫。無事さ……」
「そうか……」
影――彼女は、それだけ呟くと、迷いもなく歩みだす。
足元の死骸も、まるで何もないかのように踏み散らしながら……。
やがて、俺の横を過ぎて歩き去っていく。
すれ違う瞬間、彼女の匂いが俺の鼻孔をくすぐった。
それは、血なまぐさい、殺人鬼の匂いに他ならなかった。
俺は、彼女が去った後も、その場からしばらく離れられなかった。
何故かは分からないが、涙が止まらなかった。
「誰も、いなくなっちまったな……」
誰に言うでもなく、呟く。
先の戦いで生き残ったのは俺と、舞姫。そして、今は隣の部屋で安らかに眠る、守るべき幼い君主のみ。
激しい……本当に激しい戦いだった。
「今更怖気づいたとでも言うの? たった二人になったからと言って、君主をおいて逃げるとでも言うの、貴方は……」
すぐ目の前の壁に寄りかかった舞姫が、つっけんどんに言い放つ。
俺は苦笑した。
「怖気づく……か。はは……そう、なのかもな……」
心にもない言葉を吐く。ただ、弱音のひとつでも吐かなければやってられなかった。
君主を見捨てる気なんて、もとよりさらさらない。何があっても彼女が俺より先に死ぬなんてありえない。
けれど……恐怖は当然ある。
自分が死んでしまう恐怖。君主が殺されてしまう恐怖。
仲間はもう、ほとんどいない。けれど、敵は未だなくならない。
明日が……見えない。
重い、沈黙が流れていた。
…………
どれくらい過ぎただろうか。沈黙を作り出した本人が、自らそれを破る。
「ごめんなさい。悪かったわ……。言い過ぎね」
俺は、目を丸くした。
付き合いは1年ほどになるが、謝罪をする彼女なんて初めて見た。いや、それどころか、強情でない彼女自体が初めてだ。
「貴方がお嬢様を見捨てるなんて、あり得ないわね……。親同然の貴方が……。ごめんなさいね、お嬢様との絆もそんなに深くもない私が、貴方たちの繋がりを侮蔑するような発言をしてしまって……」
今日の彼女は、妙にしおらしかった。それは、放っておくと消えてしまいそうな灯火に似ていた。
「……怖気づいたのは私なのかも知れない。何かを見下してないと不安に押しつぶされてしまいそうだったのかも知れない……」
いつもは気丈な彼女が、今はどうしようもなく弱々しく思えた。
俺の胸は切なくてどうしようもなくなっていた。
先ほどまでの弱気な自分に喝を入れる。
「守ってやるさ……」
呟く。
舞姫が、驚いたような顔でこちらを見る。
「どこまでやれるかは分からない。けど、俺は俺のできる限りに守り抜いてやるさ。正直、俺の腕なんかじゃお前の剣なんてなれないだろうけどよ。……けど、背を預けることのできる壁くらいにはなれるだろう? お前が何も考えなくても剣を振るえるための、大きな壁に……」
守るべきものが、2つになった。
君主と、そして――
「こんな俺でも、頼っちゃくれないか?」
普段はあまりにも鋭い俺らの剣は、その刃を納めたかのような表情でゆっくり頷いた。
――ざっ。
二階の窓から飛び降りる。
周りの草がいくらか千切れて、夜の宙を舞った。
満月の照らす世界は、まるでこの世とは思えない幻想的な銀世界であった。
一瞬、妖艶な満月に見入るが、その意識もすぐに真正面へと移る。
そこには、さらに妖艶な影が立っていた。
「こんな夜中、一体何処へ行くの……」
影が……舞姫の鋭い声が、静寂を突き破る。
「はは……なに、野暮用にね……」
誰にも見つからずに用事を済ませてこようかと思ったが、流石に彼女ほどの手練には見つかってしまったか……。
ため息が聞こえてきた。
「どうせ、“不朽の体”でしょう?」
「なはは……よくご存知で……」
「昼間共に聞いた情報でしょうが……」
また、ため息。
「どうせ、ひとりで言って手に入れてこようとでもしたんでしょうが、貴方の考えなんてばればれ」
「は、はは。さいですか……」
「全く、私たちを差し置いて――」
「――いやあ、でもな。噂が本当かも分からない危険なとこに、主を連れて行くわけにも行かないだろ? かといって二人で行くのももっとおかしい。となると、俺が行くしかないじゃないか……」
「私が行くという選択肢はないの?」
(やっぱりそうくるか……)
彼女の性格だ。そういう考えを持ってくると分かっていた。だからこそ、俺はひとりで夜中にこっそり行くという選択をしたわけなのであるが。
「ない……って言わせて欲しいもんだ」
「何故?」
「俺は前に言ったはずだ。『お前の壁になりたい』ってな。だが実際どうよ? 俺は未だにお前の足元にすら及ばない」
数週間前の誓い。それを現実にするためにも、俺には力が必要だった。今は、それを手に入れる絶好のチャンスだった。
ちょうどいい隠れ家を見つけれた。
週間前の戦は敵にも大きな打撃を与えられた。しばらく追っ手はこない。
強くなるための情報を得た。
これだけの状況で、動かない話はない。
「……だから、俺が行かなくちゃならないんだ」
静かに、けれど強く、言葉を紡ぐ。
が、彼女はやはりそれをよしとはしてくれなかった。
「お嬢様には貴方が必要なの。他の誰にも変われない大切な役目。これは、曲げることのできない絶対の真実」
「おいおい……俺は別に死ぬつもりでいくわけじゃ――」
「万が一ということもある。それに、もう一度言う。お嬢様には貴方が必要なの」
「……それくらい分かっているさ」
「分かってない。貴方が“不朽の体”を手に入れることは、永遠と生きるということ。貴方の時が止まるということ。これは、貴方がお嬢様と同じ時を過ごせなくなるということと同意。そんなことは……私が許さない……」
鋭い眼光が、俺を捕らえた。
背筋を、冷たい汗が流れる。
――それくらい、
「……分かってるって言っただろ」
「分っててなお行くというのなら、分かっていない証拠。それでも、どうしても行くというのなら……」
――キンッ
金属音が、宵闇に響く。
月の照らす銀色の世界に異種の銀光が映えた。
「はは……力づくってか……」
習うように俺も刃を放つ。
――瞬間。
ギイィィィン
金属同士の共鳴音。
超人的なスピードから繰り出される剣戟は、俺の腕をそのまま吹っ飛ばしてしまうかのような衝撃。
「くっっ」
なんて力だ……ほんとに女かよ!!
(このまま鍔競り合いに――)
……視界が、揺れた。
「あ……」
口から、空気が漏れた。
視界はそのまま沈み、やがて地面と同じところまで下がる。
そこで初めて気づく。俺は、彼女に簡単にノされてしまったことに。
頭上から、声が聞こえた。
「犠牲は……私ひとりで十分……」
――そういう考えを持ってるから、俺が行こうとしたんだろう……。
思いは、口から出てはこなかった。
俺は薄れていく意識の中で、遠ざかっていく足音を聞いていた。
――なんでお前は、そんなに強えんだよ……。
想いも虚しく、視界は無常にもぼやけていく。
それは果たして、意識が薄れていく過程でのものだけだったのだろうか……。
やがて、俺の意識は深く沈んでいった……。