作:闇鵺
わたしは最近悪夢を見る。
暗い道を走り続ける夢。
何かから必死に逃げる夢。
でも決して逃げられない夢。
どんなにどんなに逃げても無駄。
また今日も……。
「あぁ……!!」
突然、時間が停止したみたいに体が動かなくなる。
足の先から体がどんどん重く、冷たくなっていく。
…石になっていくの。わたしの体が。
夢の中なのに、体が少しずつ違うものになっていく感覚が鮮明に伝わっていく。
手足の感覚が無くなって、まるでわたしの体じゃないみたいになるの。
そして全身を石に変えられたわたしは永遠に続く暗闇の中に置き去りにされる。
何も見えない。何も聞こえない。無限の闇の中に…。
目が覚めて、体を自由に動かすことができる事を実感した時、
わたしは初めてあれが夢だったんだと気付く。
体中汗まみれで、心臓はドキドキ鳴って、
でもまだ手や足は感覚が戻っていないような感じがして…。
そんな夜が毎晩続いている。
夢の内容はどんどん酷くなっていく。
最初はただ追いかけられる夢だった。
でもある時から金縛りに掛かったみたいに体が動かなくなる…そんな内容で締め括られるようになって
そして金縛りは石化というより恐ろしい現象へと変化していったの。
次はどう変化していくのか…わたしは考えるだけでも怖かった。
次なる変化はわたしの予想の斜め上を行っていた。
いつものように暗い道をただひたすら走り抜けている最中、わたしは…何故か裸になっていった。
「…え?
何…これ……?
どうなってるの…?!」
まるで火で炙られたみたいにわたしの着ていた服がボロボロと崩れ落ちていく。
スカートも、ソックスも、…下着も…全部。
全ての衣服が剥ぎ取られた時、初めていつもの石化が始まる。
「あ、あ…ダメ…!
いや…こんな格好で……!」
肌が露出してしまっても、逃げる事に必死なわたしには体を隠す余裕なんて無かった。
気付いた時にはもう体は動かなくなっていたから。
そうしてわたしは裸の石像となって暗闇の世界に放置された。
ある日に見た夢は…恐らく、これ以上無いというほどに最悪な夢だった。
逃げてる最中にどんどん服が崩れ落ちていき、全身丸裸にされた所でいつもの石化が始まる。
問題はその後だったの。
いつもならどこまで続いているのかも分からない暗闇の世界でただ一人、
孤独に耐えながらこの悪夢から覚めるのを待つばかりだった。
でも今日の夢は、それまでとは違う新たな変化を見せていた。
わたしは孤独ではなくなっていた。
「(…誰か…いるの……?)」
裸の石像となったわたしの周りに何かがいるような気配を感じた。
人か、そうでないものか、それさえも分からない。ただ気配だけ。
さらに言えばそれは“視線”だった。
「(見てる…。何かがわたしをじっと見てる……)」
視線の群れは一切動くことなくわたしの体を見詰め続ける。
何一つ身に着けず、手の平を動かすことすら出来ないこのわたしを…。
生殺しとか生き地獄とか、それはこういう状態の事を言うのかな。
たった独りでほっぽり出されたままの方がまだマシだった。
お父さんと一緒にお風呂に入ることを恥ずかしいと思うようになって以来
男の人には一切見せなかったわたしの裸。
それが今、人とも知れない何ものかに凝視されている。
胸も…お尻も…それから……全部。
「(いや……いやぁ…!
見ないで……お願い…見ないでぇ!!)」
わたしは石になっているのだから涙を流す事も、周囲の視線に対し非難の声を上げる事も出来ない。
普段からあまり他人の注目を浴びるのが苦手なわたしだけど、
こんなにも熱く鋭く、突き刺さり纏わり付いてくるような視線は感じたことが無い。
お願い…早く朝になって。わたしの目を覚まさせて。
この悪夢から…わたしを解放して…!
布団から跳ね上がるように体を起こし、荒い呼吸と治まらない心臓の鼓動を伴ってわたしは目を覚ます。
良かった…。今日もまた朝を迎える事が出来た。
パジャマはすっかり汗でビショビショになってしまっているけど、
それもわたしが生きた人間である証なんだと思えばむしろ清々しいとさえ思える。
あまりにパジャマがびしょ濡れだったから最初は気付かなかったけれど
今日は特にある一点が重点的に濡れていた。
眠っている最中にここを濡らしてしまうのはそれこそ、
家族と一緒にお風呂に入ることよりも久方振りの事で…
わたしは夢の中では流せなかった涙を流し、両目を覆った。
「………最低だ…………」
あんな夢を毎晩見せられているせいでわたしはすっかり体調を崩してしまった。
友達はそんなわたしの事を心配してくれている。けど、
さすがに「毎晩悪夢に悩まされている」なんてことを話しても
良い解決策を出してくれる人はいないんだろうな。
「それじゃあさぁ、悪い夢を見たら“獏”に食べてもらうってのはどう?」
「……もういい」
「本当だよ。悪夢に苦しんでる時に呼ぶと本当に来てくれるんだよ!」
いくら“夢”に苦しめられているからって
解決法までそんな夢みたいな話で済むはずなんてない。
それとも…すがれば良かったんだろうか。
眠るのが怖い。
またあの悪夢に苦しめられるのは嫌。
だったら眠らなければいい…?
…そういう訳にもいかない。
元々わたしはあまり夜更かしをする方じゃない。
まして全く眠らないなんてその方が余計に体を壊す。
それによくよく考えてみれば
どんなに恐ろしく、辛く、耐え難いものだとしても結局のところ夢は夢。現実じゃないんだ。
嫌な夢を見た所で目覚めの時は来る。その瞬間、夢は消滅する。
だったら…眠りに就く間だけ、夢を見ている間だけ我慢すれば…大丈夫なんだよね?
わたしはほんの少しだけ気が軽くなって、ベッドに潜った。
明日の朝まで耐え抜けますように。そして願わくば…
ちょっとでも良い夢を見れますように。
わたしはゆっくり眼を閉じて眠りに就いた。
わたしは走っている。
何も見えない、何も聞こえない真っ暗な道を。
やっぱり…またこの夢なのか。
いつものように、火で炙った燃えカスみたいに服がボロボロになっていく。
心なしか裸にされるまでの早さがどんどん早くなってる気がする。
夢を見始めて間も無いのに、わたしの体にはもう下着一枚しか残されていない。
その最後の一枚にも亀裂が入れられる。
その時、わたしは足を止めて後ろを振り返った。
下着がちりぢりの細かい布の切れ端となって闇の中に溶けていくのが眼に映った。
きっとこの後はいつものように石にされるんだろう。
そして姿も知れないいくつもの視線の前に晒し者にされるんだろう。
…でも、これは夢だ。それならば。
些細な抵抗のつもりだった。
ずっとわたしを追い回しているのは何なのか、その正体を暴いてやろうと思った。
そうすれば、もしかしたらこの悪夢を終わらせる事が出来るのかも知れないと、
そんな淡い期待も抱きながら、わたしは振り返り暗闇の中に目を向けた。
その“淡い期待”が思い掛けない形で叶うという事をその時は知らず。
「…!
あなたは……!?」
そこには一人の女の子がいた。
わたしと同い年ぐらいの女の子で、不思議な長い髪をしている。
最初は金色だと思っていたらいつの間にか黄緑色になっていて、
どんどん暗く青色に染まっていくかと思いきや今度は真っ赤な色になる。
七色に変化する不思議な髪。
…その子は裸だった。
何一つ身に付けていない。そしてそんなあられもない姿を隠そうともせずに
いたずらっ子のような笑みを浮かべている。
そういえばわたしも今は裸なんだと思い、
相手も同じ女の子とはいえ、とっさに体を隠そうとするわたし。
でも、体はもう動かなくなっていた。
「あなたが…ずっとわたしを追い回していたの?
わたしの服を奪ったり、わたしの体を石にしたり、じっと…見てたりして……」
女の子は何も言わずに微笑んだまま佇んでいる。
呼吸をちゃんとしてるんだろうかと思えるくらい微動だにしない。
人形みたいな女の子だ。白くて細い体。
胸は…わたしの方があるかな…。…こんな時にどこ見てるんだろう、わたし……。
「…あなたは誰?
一体…何者なの…?」
女の子が口を開く。
壊れた機械みたいな甲高くて不安定な声。
「私ハ アナタノ
欲望」
「わたしの……欲望……?」
「アナタハ アナタノ欲望 ヲ 否定シタ。
ダカラ アナタハ 逃ゲル。
私ハ追ウ。
ソシテ 今宵、アナタハ アナタノ望ミヲ 受ケ入レタ。
ダカラ私ハ
現レタ」
女の子がゆっくりと手を前に伸ばす。
それに釣られるようにわたしの両腕が左右に持ち上がっていく。
まるで十字架に磔にされたみたいに。
抵抗しようとしても力が入らない。
そして…石化が始まった。
「イツマデモ 永遠ニ美シクアリタイ
トイウ アナタノ願イ。
今、 叶ウワ」
「そんな…何を言ってるの…?!
わたし、そんなの望んでなんか……!!」
「…アラ、違ウノ? アナタハ自分ノ 望ミヲ 受ケ入レタ。
ダカラ私ヲ
呼ンダノデハ ナイノ?」
「……ちがう…ちがう!
わたしは……」
女の子は手を伸ばしてわたしの左胸に触れる。
温かくも冷たくもない、ただ触れる感触だけが伝わってくる。
それはこの女の子が温度というものを持たない存在だからなのか
それとも…わたし自身がもう温かさや冷たさを感じる事も出来ないくらい
感覚を消失してしまっているからなのか…。
「アナタハ
マダ アナタノ心ヲ 否定シテイル。
ソレナラ 見セテ アゲル。 アナタノ心ノ
内。
アナタノ願望」
割れたガラスのように女の子の体が壊れて消えていく。
それと入れ違いに、わたしの目の前にわたしの虚像が現れた。
裸にされ十の字に磔にされたような格好で、
足元から、手の平の先から徐々に石になっていく鏡に映ったわたしの姿。
「………あ……」
キレイ…。
細くてしなやかな腕や脚。それが少しずつ、磨き上げられた宝石のような白い石で染まっていく。
触るときっと滑らかで、その感触は永遠不変…、
でも、もし倒れたり少しでも傷ついたりしてしまったら
その瞬間に跡形も無く壊れ、崩れ落ちてしまうくらい儚げで繊細で……。
目の前に映るわたしの姿は…たまらなく美しかった。
わたし、これじゃあまるでナルシストみたい。
でも…本当に美しいんだもの……。
すっかり恍惚としたわたしの眼に、次々と虚像が映り込んでいく。
今まで見てきた夢の中で石にされたわたしの姿。
驚いたり、恐れたり、悲しんだり…色々な表情や姿勢で固められている。
そんなわたしの石像が所狭しとこの暗闇の空間に浮かび上がってくる。
「うわぁ……。…あは…、あはは……」
「ソウ、
気付イタ? アナタヲ見詰メル 眼差シハ、
自ラノ美シサニ 酔イシレル アナタ自身
ダッタノヨ」
虚像が一斉に消え失せ、虹色の髪をしたあの女の子がまた姿を現す。
女の子はわたしの体に身を寄せて優しく抱きしめる。
気付けばもう肩の辺りまでわたしの体は石になっている。
そっと背中を撫でさする女の子の手の感触も、もう感じない。
耳元で小さく囁く声。
きっとそれが、わたしが最後に聞く言葉。
「アナタ…
トテモ キレイ」
わたしはもう夢から覚めない。
永遠にこの暗闇の世界で裸の石像のまま…居続けるの。
どこからかわたしを呼ぶ声がしても、
この夢の世界から解き放とうとするものがいても、わたしは目覚めたりしないの。
だってわたしは手に入れたから。
この永遠の美しさを。いつまでも綺麗でいられるこの体を。
……わたし……すごく幸せ……。
ほら…見て……。
わたし…綺麗でしょう?