作:日常の混沌
――ビシャア
液体がぶちまけられる音。そして、
――ボグっ
左手に、確かな手ごたえ。
「くあああああええええ!!!!」
瞬間、私はその場から飛びのく。
視界には、私の裏拳を顔面にモロに食らって怯む鳥の化け物が遠ざかっていく像が写っていた
そのまま、右手で剣を抜く。こっちの姿を見失っている今がチャンスだ。
細かいことはいい。今は、眼前に存在する必殺の瞬間を見逃さないことが何より大事である。
私は、今飛びのいた場所に再び一足跳で踏み込む。そして――
――ゴガッ
「カアアアアア!!!!」
手ごたえ……咆哮。
そして――違和感。
「!!!!」
今度は横合いに飛び退る。
(なに……今のは……?)
未だかつて感じたことのない衝撃が、右腕に走っていた。
「あんな感触のする獲物は……初めて……」
初めての感触。
――それは……痺れ?
はっとする。
私は思うところがあり、近くの木の枝に一瞬で飛び乗る。月光が届く場所まで……。そして、右手……というか、愛刀を見る。
驚愕だった。
刃を納められた愛刀が、月光に映えていた。
「は、はは……」
何故か、笑えた。自分は一体何をやっていたのか。
初めての感触?……当たり前だ。鞘ごと相手を叩き切ろうとなんて、したことがあるわけがなかった。
左手で、鞘を押さえ損ねたというのか。いや、そんなはずはない。物心ついたころから繰り返し続けてきた行為、息をするのと変わらないくらいに自然なもののはずだ。
「…………」
考えるのは、やめた。
目の前にはまだ息をもった敵がいる。なのに余計なことを考えるなど愚の骨頂。必殺のときを相手に与えることと同意である。
(とりあえず、剣を抜かなきゃ……)
左手を動かそうとして、再び私を襲う脅威という感情。
「左手が……動かな……」
視線を移す。
薄い月明かりに照らされた左手は、腰のあたりで、いつもの抜剣のポジションにしっかりと釘付けになり、肘のあたりから灰褐色に染まっていた……。
一瞬呆けるようになりながら、柄を握ったままの右手でそこを触る。
――ザラリとした質感が、右手に残った。
その感触は、まさに石。
思考が、吹き飛ぶ。
(いったいなにがいったいなにがいったいなにがいったいなにが――)
訳が分からない。
重く、動かない左手。
自分のものではなくなった、肉体。
――殺気。
視界に、満月を背にして翻る化け物鶏が……
考えるよりも先に体が反応していた。
即座に左前方の地面目掛けて降りる。
続いて、背後で聞き覚えのあるビシャアという効果音。
後ろ目に振り返る私に、衝撃が走る。
先ほどまでいた木の枝が、化け物鶏の吐く液体をかぶったそれが、みるみる灰褐色に変わっていく。
そして、化け物鶏がその木の枝に足をかけると、枝はまるでガラス細工のように砕け散る。
――理解した。
先ほど裏拳を繰り出した際、左手にあの液体を浴びたのだ。
全身からかぶっていたかもしれないと思うとぞっとしない話だ。
しかし……
(……細かいことは……あと!!)
もう使い物にならない左手のことを考える余裕などない。油断は相手の必殺のとき。
私は刀身を鞘ごと咥えると、一気に愛刀を引き抜いた。
――キンッ
小気味のよい音と共に、暗闇に映える細い三日月。
――どすっ
鈍い音が、闇の向こうに聞こえた。おそらく、化け物鶏の落下音。
ごくりと唾を飲み、愛刀の柄を逆手に握る。
左手の使用が不可能となると、はじめから右手のみでしか使えない構えを取った方がいい。もしも、いつものクセで左手に頼る動きをしていまえば、私の時は止まる。
森の向こうで、風が動いた。
――動きは決して速くはない!!
ならば油断さえしなければこっちのものだ。虚をつけば……殺れる!!
そう意気込むと、私は横に跳んだ。
案の定、化け物鶏は遅いとまではいかなくとも、決して速くはなかった。先読みの後回りこむということを数回繰り返し、それを確信に変える。
必殺の瞬間は、すでに微笑んでいる。
しかし、気になることがひとつあった。
「――クワアッ」
何度目かの、石化液を横っ飛びでかわす。
この鶏は、この後に大きな隙が生まれる。
『どんな奴でも、必殺の一撃の後には隙ができる。それを必殺の時へと変えろ』
“飼い主”の言葉が甦った。
化け物鶏がこちらに振り向こうとする瞬間、私は夜空に舞う。
完全にバックを取った形になるが、私は再び距離を取るのみ。
――気がかりだ。
(石化液を吐く魔物……となると、奴のあらゆる体液が石化効果をもっていてもおかしくはない)
命を絶つまでの段取りは立てるまでもない。けれど、その後に私の時も止まってしまっては仕方がない……。
(どうしようものかしら……)
体液が石化液ということは、切りつけることですら剣の石化と同意になりえる。ここで剣を失うのは正直簡便だ。
(なにか……策は……)
何度目かの間合いの取り直しをしながら、思考を巡らせる。
「ケアアアっ!!!」
咆哮が、あとを追ってくる。
吐き出される液体。固まる地面。
何度やろうともこちらには届かない。
(諦めてくれると助かるんだけど……)
ドスドスと地面を踏む音は、決して止むことはない。
私は、追いかけられる形で、山のほうに向かって走り出した。
何か策を見つけたわけでもないが、策が見つけられなければ、状況を変えてみることが活路になることもある。
それに期待して、深淵の森を駆けた。
森を抜けた。
満月が薄明かりを照らす広場だった。
眼前には、反り立つような崖。
私は崖を背にして向き直る。
そこには、ゼイゼイと息を切らしてこちらを睨む化け物鶏。
「クカァアァ……」
これで終わりだとでも言わんばかりに吼える。
(追い詰められたつもりはないんだけどね……)
相手に細心の注意を払いながら、周囲の状況を確認する。
背後は崖、左右は何もない広場、正面には森と、化け物。
……ため息が出た。
(なんにもないじゃないの……)
自身に対して、毒づく。
世の中そんなに甘くないということか。
――ドス……
化け物鶏が、一歩踏み出す。満月の元にさらけ出される容姿。
茶色の羽毛に、短い翼、しゃくれた感じの嘴。トサカがないくらいで、まさに……鶏といった感じだった。
「……?」
ふと、気づく。
眉間の辺りに色が違うところがある。
(斑点か何かかしら……)
と、何かが閃いた。
(あの色は……)
予想通りだとすると……勝機が見える。ハズレだとしても、事態の悪化は注意すればどうということもなさそうだ。
背後には、ちょうどいい崖まである。
意識もしなかったが、口元に笑みが浮かんだ。
私は、化け物に向かって駆け出した。
お互いに駆け寄る二つの影。
化け物の口が大きく開かれる。衝突寸前、吐き出される異液。横に舞う私。
そのまま振り返ることなく駆け出す。
背後から、ドスドスという足音が追ってくるのが聞こえた。
やがて、二つの影は崖に到達する。
「カアアアアアッ!!!!」
後ろを肩越しに見やると、逃げ場をないと判断したのであろう化け物鶏が、今にも私を固めんとせんばかりに、大口を開ける。
それを見た私は、崖に向かってさらに加速する。
――たっ
地面を、蹴った。
「ゲアアアアァァァァァ!!!!」
咆哮。おそらくは、石化の液を吐き出した。
そして、崖を――
たったっっ
崖を利用して宙を返る。
頭が下になった状態で、私は満月の下を舞った。
眼下では、石化液をまだ出し切っていない化け物鶏が、私の影を顔ごとで追っていた。自身の液で弧を描きながら……
私に迫る必殺の液体。逃げ場はない。だから――
「ハアァァァァァ!!!!!」
右手に握った愛刀を思い切り振る。
――ファンッ!!
刃は風を起こし、衝撃波を生み出す。
果たして化け物の攻撃は、私に届くことはなかった。
先ほどまでは天空を目指したそれも、私の剣圧にはじき返され……
――ビシャア
地に、堕ちる。
「クワアアアアア!!」
苦悶に似た咆哮が、夜空に響いた。
やがて、私の身も地面にたどり着く。
「ケア……カ……」
みるみる灰褐色に染まっていく化け物鶏。
「やっぱりね……」
悶えながら時を止めていく化け物。奴の液は、“あらゆるものを石に変える”ものだったようだ。
「たまには、自分が石になる苦しみも知ることね……」
眉間に見えた異質な斑点――その灰色は、自身の液で固まった石に違いなかった。石化液をかぶったばかりの私の拳を受けた際のものだったのだろう。
「まあ、二度とない“たまに”だけどね……」
ひとりごちながら、踵を返す。
「さて……あの女は『洞窟に魔物が巣食う』とか言ってたわね。なら、目的地も近いということね……」
私は月光に照らされながら、洞窟を探すべく歩き出した。