作:闇鵺
小さい頃から、あたしは他人と同じ事をするのが嫌いだった。
周りからはよく「天邪鬼」だと言われていた。
決して褒められている訳ではない事は分かってる。でも……
自分の性格が“化け物”に例えられているという事に、あたしは妙な歓心を覚えていた。
次元を超えた伏魔殿。言葉を交わす異形のものが二つ。
一つは大きく、一つは小さく。
大なるもの:……時は来た…。…今こそ、我等が野望を果たす時……。
その為に貴様を彼の地に遣わす…。良いな…ダーティ……。
小なるもの:おうよ!
任せときな!
このオレの活躍振りをとくと見とくんだぜ、ドゥーム様よぉ!
大なるもの“ドゥーム”の声が低く響き渡り、異次元の波を振動させる。
それに反して小なるもの“ダーティ”の声は明朗でやる気に溢れ、そして馴れ馴れしい。
ドゥームとダーティの立場、及び力関係を考えれば到底不遜な態度など取れたものではないんだが
それでもタメ口で話すのがダーティという奴である。
そしてその事はドゥームも十分承知しており、半ば諦めている。
まぁ、己の命ずるままに動けばそれで良い。礼儀や作法など二の次だ。
ドゥーム:…あまり高を括っていられる状況でもないぞ…。
先程入った情報だ…。我々を嗅ぎ回っていた例の子ネズミが脱走した…。
ダーティ:何だと?!
オレらの周りをチョロチョロしてやがったあのチビ妖精が……?
…そりゃ急がねぇとな。オレらの計画が最悪ルートを辿っちまう前にな…!
じゃあ、行ってくるぜ!
その言葉を最後に、ダーティは次元の狭間に身を潜らせ姿を消した。
黒髪の少女は一旦眼鏡を外すと両目を軽く擦り、
ついでに眼鏡のレンズを拭いてまた掛け直した。
手の平を自分の額に当ててみる。相変わらずの低体温。
さすがに頬を引っ張るような間抜けな真似はしない。
そうまでして目の前の非現実的存在が現実であると思い知らされるのなら
もう今の段階で全てを受け入れてしまった方がいくらか気が楽になる感じがする。
少女:……妖精………?
妖精:…えと……、驚かせてごめんね……。
少女:……あたし…「妖精が目の前に現れてほしい」なんて願った憶え、あったかしら……?
妖精:…………?
ここは少女の自宅の、少女の部屋。
中学生女子の部屋にしてはやけに殺風景で、ベッドにぬいぐるみが置いてある訳でもなければ
壁や机の上に友達の写真なんかが飾ってある訳でもない。
読書家なのだろうか、やや大きめの本棚の中には綺麗に本が収められている。
学校を終えて早々に帰宅し、制服姿のまま着替えようとはせず、
読み掛けのライトノベルに手を伸ばし、それを無言で読み進めていた時。
少女が“妖精”とでも呼称すべき小さな知的生命体との邂逅を果たしたのは
そんないささか地味ですらある極日常の中のほんの一幕での事だった。
妖精:わたしの名前“コルム”っていうの。あなたは…?
少女:……星降
千夜(ほしふる
ちよ)…。
互いに名乗り合い、コルムという名の
人間にして十歳前後に見える小さな妖精はペコリと可愛らしくお辞儀した。
対する千夜の返事は何となく曖昧なものだったが、
これはまだ“妖精”という存在に対して免疫が出来ていないからというだけではない。
星降
千夜という少女は人見知りが激しいのだ。
コルムは表情を微笑みから一転して深刻なものへと変化させ、そして語り出した…。
コルム:…あの、突然こんな話しても信じてもらえないかも知れないけど、
でも…聞いて欲しいの…!
千夜は不自然なくらいに表情を変えずに手近にあった栞を本の間に挟み、
破天荒な女の子が活躍するライトノベルを机の上に置いた。
本当は突然の事態に動揺しているのかも知れないが、それを表に出す事を千夜は良しとしない。
そして千夜はコルムに向き直って姿勢を正す。
「聞く姿勢は出来ている」という無言の意思表示。
コルム:あのね…、こことは違う別の世界から…
恐ろしいもの達がこの世界を狙っているの……。
わたしは彼らの所に忍び込んでその計画を調べてたんだけど、見付かって捕らえられてしまったの……。
でも、何とか抜け出して、この世界に辿り着く事が出来たの…!
彼らの計画をこの世界の人達に伝える為に……!
悲痛な面持ちのまま一通りの説明を終えると、コルムは心配そうに千夜の顔を見上げた。
案の定、千夜は少々呆気に取られているように見える。
コルム:……えと……、信じて…くれる……?
千夜:……信じるも何も、そうだと言うんだからそうなんだと思うしかないでしょう?
…あたし、幻覚や幻聴を見たり聞いたりするほど、自分を見失った憶えは無いわ。
随分な言い草だが、一応は信じてくれているようでコルムは安心する。
千夜:二つ質問があるわ。あなたが変な連中に捕まって逃げ出して来たのはいいとして、
まず、どうしてあたしの所に来たの?
そんな大事な事を伝えに来たんなら、もっと他に行くべき所があるんじゃない?
…まぁ、今の話を信じられるだけの物分かりの良い人間がそうそういるとは思えないけど。
それともあたしの前に現れたのは単なる偶然?
コルム:うーん……偶然って言えば偶然かも知れないけど……。
…あのね、この世界の人達にはみんな少しずつ魔法の素質があって、
それは人によって大きかったり小さかったりするの。
千夜ちゃんは人一倍魔法の素質が強い人なの。
わたしはそれに引かれて千夜ちゃんの所にやってきたの。
千夜の口調がどうしても高圧的になってしまうせいだろうか。
慎重に言葉を選びながら説明をするコルム。
その甲斐あってか、千夜も一応は納得しているようだ。
千夜:二つ目の質問。あたしにその計画だか何だかがある事を伝えて、それからどうしようっていうの?
…何となく、想像が付く気もするけど……。
人間界を狙う異界のものたち……、
それを伝えるべく現れた妖精の少女……、
そして…妖精と出くわし、何やら「素質がある」ような事を言われてしまった自分……。
…チープな展開だと千夜は思った。
千夜の予想が恐らく正解であろうことにはコルムも見当が付いた。
コルム:…うん……。千夜ちゃんには…戦って欲しいの…!
異界のもの達から…この世界を守る為に……。
もちろん、わたしも一緒に戦う…!
わたしが千夜ちゃんの中に眠っている力を目覚めさせて、
千夜ちゃんを守ってあげるから……だから……!!
千夜:………“正義の味方”…って訳ね……。
千夜の呟く声はコルムには届かなかった。
ただ、暗い表情をしているのは明らかだ。
コルムも一層申し訳無さそうにする。
コルム:……ごめんね……。やっぱり…怖いよね…。
突然こんなお願いしたって…困っちゃうよね……。
…でも…、わたしにはもう…千夜ちゃんしか頼れる人がいないの…。
わたしが逃げ出した事はきっとすぐ彼らにも分かっちゃう…。
もし追っ手がこの世界に現れて、わたしが連れ戻されるような事になったら……わたし……。
千夜:…………。
コルムはすっかり涙声だ。もう既に最悪の事態に陥ってしまったかのような絶望的な顔。
僅かでも良心を持った人間なら、このか弱い妖精に力を貸す事に何の躊躇もしなくなるだろう。
小さな指で涙を拭い「それにね」と再び話し始めるコルム。
コルム:千夜ちゃんは独りで戦う訳じゃないよ…。
わたしもまだ直接会った事は無いんだけど……
魔法の力を使って悪者達と戦う仲間はたくさんいるんだよ。
千夜:…何?
“魔法少女”って大勢いる訳…?!
…何故“魔法少女”限定なのだろう…。言ってから疑問に思う。この際どうでもいい。
この妖精、重大な事実をさらっと打ち明けやがった。さすがにこれには度肝抜く。
千夜の驚きをどう捉えたか、コルムの表情に僅かに明るさが戻る。
コルム:うん…!
いっぱいいるよぉ!
千夜ちゃんが今まで知らなかっただけで、
みんな、正義の為に頑張ってるんだよ!
雨上がりの空のように、コルムの表情にも少しずつ光明が舞い込んでくる。
千夜はというと、何かを決めかねているかのような複雑な表情。そして……
千夜:……そう…。………だったら……
謎の声:待ちやがれ!
てめぇら!!
何も無い空間から奇妙な声が聞こえた。
コルム:…!?
千夜とコルムは同時に謎の声が聞こえた方向に顔を向けた。
そこでは、何も無い筈の宙空で空間が裂け目を生んでいた。
空間の裂け目から爪のようなものが生えだしてグググと裂け目を押し広げ、
そこには直径50センチはあろうかという次元の穴が出来上がった。
次元の穴から見た事も無い異生物がひょっこりと顔を出した。
謎の生物:へへっ、最速ルートで突っ走ってきた甲斐あって、何とか間に合ったぜ。
爪を出して穴から顔を出すという仕種から、どことなくモグラを連想させる。
ただ、子供向け番組に出てきそうなデフォルメされたモグラなら
もう少し愛嬌のある声で喋るわねと千夜は思った。
それにこの蒼褪めた肌に、手を出しただけで噛み付いてきそうな底意地の悪そうな顔…、
…そうだ、サメだ。サメに似てる。
千夜:……何?
このサメモグラ…。
謎の生物:怪獣みてぇな名前付けんじゃねぇよ。
オレの名は“ダーティ”ってぇんだ。覚えときな、能面メガネ。
珍しい物を見るような目で、
何の警戒心も無く“ダーティ”と言葉を交わす千夜。
妖精が既に目の前にいるんだ。今更空間を裂いて奇妙な生き物が現れようと驚かない。
その異生物に暴言吐かれようと千夜は全然動じない。
だが、それとは対照的にコルムは身を震わせ、瞳からはまた涙が滲み出している。
コルム:…ち、千夜ちゃん、逃げて!!
これが…この怪物がこの世界を狙ってる異界のものだよ…!!
「これが?」と千夜はダーティを指差して無言で問い掛ける。
こんな噛ませ犬の使い魔みたいな奴が?
しかし、手の平サイズの妖精コルムにして見れば十分怪物級の大きさだし、
本人の口の悪さも相俟ってそれなりに脅威の存在に思えるんだろう。
…などと怯える妖精の泣き顔を観察しながら考えていたその時……。
千夜:……えっ……?!
妖精の顔をも含めた、目の前の空間が激しくひび割れ、
割れた硝子の様に一瞬にして崩れ落ち、全てが黒に包まれた。
千夜:(…なに……?
…何が…起こったの…?
あの変なサメの仕業…?!)
永遠に続く黒の彼方から、稲妻のようなものが千夜の顔面を目掛けて飛んでくる。
稲妻に眼鏡が弾き飛ばされ、中央で両断された眼鏡はそのまま形を失って完全に黒の中へと消えた。
更なる稲妻が、今度は群れを成して迫ってくるのが見える。
不思議な事に裸眼となっても視界がぼやけるような事は無く、
網の目のような稲妻の筋一つ一つを肉眼で捉える事が出来る。
稲妻の群れは触手を伸ばすように次々と千夜の体に飛び掛かっていき、
稲妻に触れた箇所の衣服が破れ、剥がされていく。
どんなに無数の稲妻がその身に触れようとも、千夜は全く痛みを感じない。稲妻の感触すらない。
ただ、自分の体を覆う物が次々と取り払われている事だけは感じる。
…そもそもこれは稲妻なんだろうか。
千夜:……………。
全ての衣服が取り去られた。
裸の千夜は恥ずかしいなどと感じる余裕も無く、
ただ呆然と成り行きを見守るしかない。
稲妻の群れは徐々に勢いを弱め、消えていく。
そしてまた元の黒に戻った。
千夜:………ん……!
体中が一瞬、ピリッとしたような気がした。
稲妻による痺れを今更感じたというのだろうか。それにしてはあまりに微弱だ。
千夜の視界は今、真っ黒だ。稲妻の残像すら残っていない。
でも千夜は自分の体が今どんな状態になっているのかを知る事が出来た。
まるで今の光景が自然に頭の中に流れ込んでくるようだ。
指先から、そして足の爪先から、体が黒く染まり出している。
この黒い空間と一体となろうとしているかのように。
千夜:……ああ…ぅ……。
黒く染まった部分から感覚が消失していく。
まるで黒曜石のように硬く、動かす事が出来ない。
腕から肩へ、脚から腰へ…変質は広がっていく。
心臓がドクンと鳴った。
心音とは、こんな銅鑼を鳴らすような激しい音を放つものだっただろうか。
固く閉ざされた扉を押し開こうとするような強い響きだ。
千夜:……はぁ…はぁ……は…ぁ……!
体が黒曜石になっていくに連れ、心臓の鼓動が速く、大きくなっていく。
不思議な感覚だった。それは恐怖というよりも単なる高揚と言った方が近い。
心臓がドキドキする。少しも怖くはない。そして、何だか頭の中が熱くなっていく。
黒く染まった部分の熱が上へ上へと押し遣られてきたみたいに。
この胸の高鳴りは、心臓までも黒く染まった瞬間に途絶えてしまうのだろうか。
それは“死”だろうか。自分はここで、異界のものに囚われ朽ち果てるのだろうか。
どうして自分は未だに恐怖を感じていないんだろう。
千夜は自らの問いに自らで答えを出した。
それはまるで初めから解答を見ながら問題文を読むようなものだった。
今、自分の体に、心に起こっている変化…それは……
千夜:…う…あ……ああああぁぁ……!!!
言葉を失った獣のような叫び。
それは黒の変質が心臓にまで及んだ瞬間に訪れた。
人間の生命を司る最重要器官が黒曜石と化した瞬間、
それまでじわじわと進行していた黒の変質は一瞬にして進み、
瞬く間に少女は黒い塊と成り果てた。
時間が巻き戻るように元の世界の“破片”が復元していき、黒の空間を封印していく。
そして瞬く間に空間は正常さを取り戻した。…ただ一人の“少女”を除いて……。
ダーティ:へへっ、第一段階終了だぜ。これでこの女はオレのものだ。
コルム:…あ……あぁ……そ、そんな……?!
ダーティ:オレは悪党だからな。面倒な事はしねぇ。
欲しいもんは力尽くでモノにする。そいつが最速ルートなんだよ!
少女の形をした黒い塊を前にコルムは身を震わせ、ガクリと膝を突いた。
一糸纏わない姿で黒い石の塊と化した少女。
つい先程まで“千夜”という名で呼ばれていた少女は
今にも“悲鳴”が聞こえてきそうな形相で静止している。少なくともコルムにはそう見える。
ダーティ:慌てんなよ。まだ終わりじゃねぇ。第二段階の開始だぜ。
不敵な笑みを残して、ダーティは突然次元の穴の中に引っ込み、穴自体も閉じてしまった。
そして黒い石像となった千夜の体に音も無くヒビが刻まれる。
蛹を突き破る昆虫のように…邪悪な気配を纏いながら……
全身を覆う黒曜石を粉塵の如く吹き飛ばし、目覚めた“彼女”は静かに佇んでいた……。
“彼女”は周りの世界も、自分という存在さえも
始めて見るものであるかのようにゆっくりと辺りを見回す。
大きな鏡が“彼女”の目に留まる。
そこに映る虚像を見て初めて、ここは“星降
千夜”という少女の部屋で、
自分がその“星降
千夜”であるという事を思い出した。
千夜:……………。
今、鏡の中の千夜は不思議な格好をしている。
幅広の鍔に頭頂部が折れ曲がったとんがり帽子。全身を覆う黒マント。
体中から浮かんでは消えを繰り返す紋様。いつの間にか首に掛けられた水晶玉。
そしてタイトスカートにガーターベルト……。
細々と格好付けたようなアレンジはあるものの、これはどう見ても魔女の扮装だ。
胸元の水晶玉に星屑のような粒子が浮き上がり、
そこから意地の悪そうな声が響いてくる。
ダーティ:見たかよ!
邪悪なる魔法少女の誕生だ!!
これで第二段階終了だ。で、次に第三段階だ。
オレらの計画の邪魔になる奴を…片付けてやろうじゃねぇか…!
人形のように無機質な動作で、鏡の中の自分からコルムの方へと視線を移す千夜。
コルム:…ひっ…!
いや……イヤアアァァァ…!!
悲鳴を上げつつ、コルムは窓を擦り抜けて猛スピードで逃走する。
ダーティ:…へっ、逃げやがったか。まぁいいぜ。早速こいつのお手並み拝見といこうじゃねぇか。
さぁ、いつまでもボンヤリしてんじゃねぇぜ。さっさとあのチビ妖精を追いかけな!!
ダーティの命令に答える千夜の声、それは自分でも驚くほどに冷たい響きをしていた…。
千夜:………あたしに命令しないで……。
千夜の部屋を飛び出したコルムは、
その手の好事家が未確認飛行物体と誤認してしまいそうな速度で雲の間を飛行していた。
不穏な気配に引き寄せられたかのように空は曇り始めている。
コルム:…どうしよう…どうしよう……!?
千夜ちゃんが異界のものに捕まっちゃったよぉ…!!
…早く、魔法界に戻って女王様に知らせないと……。
……わたし一人の力じゃどうにもできない……。…ごめんね……千夜ちゃん……。
千夜:…謝る必要なんて無いわ……。
雲の隙間から、雪夜のように冷え切った千夜の声が響いてきた。
驚くコルムの背後から雲を裂いて現れたのは紛れも無く千夜だ。
魔女のような黒装束を纏った千夜は、それこそ魔女の箒のように
先端に小振りのカボチャのような物が付いた長いロッドにしがみ付いて猛スピードで追い掛けてくる。
コルム:…ち…千夜ちゃん…?!
力の制御が上手くいかないのか、ロッドはまるで暴れ馬のように滅茶苦茶に飛び回る。
小さく悲鳴を上げながら千夜は何とかロッドを操ろうとする。
振り落とされ掛けた千夜が辛うじて片腕でロッドを掴む…!
ぶら下がりながらも追跡を続ける千夜。…すると、少しずつだが飛行が安定していった。
あんな体勢でコツでも掴んだのだろうか…?
そんなどう見ても不安定な体勢のまま、千夜は空いたもう片腕を獲物を狙う猛禽のように構える。
その獲物とはもちろん、か弱き妖精コルムだ。
コルムの背後から邪悪な魔力が差し迫ってくる…。
千夜:……グリブ・ディアン…!
構えた手に蓄積された魔力がそのまま爪状の波動となって、コルム目掛けて撃ち出される!
黒い大爪は一直線に飛び、コルムの体を文字通り鷲掴みにした!
コルム:きゃあああぁぁぁぁ…!!!
体に喰い込む爪の痛み。それは血が溢れ出るような物理的な痛みではなく
どちらかというと疲労や脱力感に似ていた。
全身から力が奪われていく。羽ばたく羽からも救いを求める手の先からも。
無闇に抗うよりも、いっそこのまま身を委ねてしまった方が幾分楽だろうか…。
千夜の腕から放たれた魔爪は小さき妖精を心身共に蝕んでいく。
コルム:……千夜…ちゃん……。…ダメだよ……。
…お願い……目を…覚まして……。
…千夜ちゃんは…異界のものに……操られてる…だけなんだよ……。
ダーティ:…そいつは違うぜ。
コルム:……え?
千夜の胸元の水晶玉から姿無き声が響く。
その意地の悪そうな声に何処と無く苦々しさを漂わせて。
ダーティ:オレも最初はそのつもりだったんだがな。
…こいつはあくまで…自分の意思でてめぇに襲い掛かってんだよ…!
コルム:……!?
どういう事?
初め、その意味が分からなかった。
分かりようもないだろう。コルムのような純粋な妖精には到底。
“穢れ”というものを知らない者が、初めてこの世の醜さに触れた瞬間だった。
コルム:……ち…よ…ちゃん……どう……し…て……。
千夜:言ったわよね……。「“正義の味方”の魔法少女は大勢いる」って…。
…だったら…、あたし一人でも悪側に回った方が釣り合いが取れるのよ。
コルム:……………!
妖精は初めて、自分が大きな選択ミスを犯してしまった事に気付いた。
……もう、何もかも遅かったんだけど。
握り潰すように魔力の爪は妖精の体を覆い尽くす。
その中で妖精の小さな命は冷たい石の中に封じられる。
浮力を失って、妖精の形をした黒い塊が暗雲の中に墜落していく。
暴れ馬のようなロッドにぶら下がった魔少女が堕ちゆく塊を攫っていった。
千夜は宙空を漂いながら、ともすればパートナーとなっていたかも知れない
黒く染まり果てた妖精の石人形を手に呟く。
千夜:…悪いわね。……あたし、昔から“正義”なんて言葉、大嫌いだったのよ。
ここで同情なんてものを感じてしまったら負けだと言わんばかりに
千夜はあくまで冷淡に、コルムを真上に放り投げた。
投げた先には次元の穴が開き、コルムを飲み込むと音も無く穴を閉じた。
千夜:…これで良いのよね?
ダーティ:上出来だぜ。予想以上だ。
千夜:……そう。
千夜は徐々に降下していき、雲の中へと消えていった。
曇りの空は今やすっかり太陽の光を遮断してしまっていた。
何かを恨み、憎んでいた訳ではない。
途轍も無い野望があった訳でもない。
…じゃあ何だと言うのだろう?
何故そんな選択をしてしまったんだろう。
その答えは心の中では解っているつもりだったけど、
具体的な言葉として表現する事は出来なかった。
今は、まだ。
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